拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
表題の稲田正純とは、一時期今田新太郎と同僚だった(参謀本部作戦指導課(後作戦指導班に格下げ))人物です。
作戦指導課には今田の外に
・河辺虎四郎(終戦時参謀次長だった切れ者な人)
・高島辰彦(今田とは士官学校、陸軍大学校と同窓で、軍関係では多分一番の親友)
・堀場一雄(あの服部卓四郎、西浦進と同期で「陸軍三羽烏」といわれる)
・秩父宮雍仁親王(昭和天皇の弟、昭和13年からの途中加入)
がいました。
「…え、それだけ?」
と思ったあなたは正しい。実は作戦指導課なる物自体が石原莞爾の肝いりというか独断で出来た部署でして、ここのメンバーは石原莞爾が選んだ精鋭で構成されていたのです。
そこに途中加入したのが稲田正純でした。
…ともかくメンバーを見て貰えば分かるように、かなり個性的な集団の中での仕事はとても印象に残ったらしく、戦後、稲田はここの思い出を『稲田正純氏談話速記録』や『昭和陸軍秘話』などで語っています。
今田を捕まえて「支那ゴロ」とは何ですか品のない せめて「支那フェチ」とか「支那ヲタ」と言いなされヾ(^^;)
あと、高嶋さんやっぱり変でしたか…「不思議ちゃん」とは思ってましたが でも悪い人じゃないと思うよ!…たぶん…
今田と稲田の悪縁は続く。
今田が配属された第36師団ごと西ニューギニアのサルミに放り込まれてえらい目にあったのは今まで散々話したが、それに油を注いだのがどうも稲田らしい。
更にこの稲田の決断が第36師団に更なる苦難をもたらすことに。以前、第36師団旗下の松山部隊が無茶な援護作戦を命じられてえらい目にあったことは書いたことがあるが、実はこの稲田が放棄したホーランジアを奪回すべく命じられた作戦だったのである。
その後、稲田は様々に所属を変えつつも最後は本土にて終戦。今田は補給も止められ連絡もない状態のままニューギニアにて終戦。最も稲田は戦後戦犯に問われて刑務所に入っていたようですが、それも昭和26年(1951年)には出所してその後昭和61年(1986年)に89歳の生涯を全うしてるのですから…どう見ても今田(昭和24年(1949年)に54歳で死去)に比べりゃ勝ち組ですよね…
作戦指導課には今田の外に
・河辺虎四郎(終戦時参謀次長だった切れ者な人)
・高島辰彦(今田とは士官学校、陸軍大学校と同窓で、軍関係では多分一番の親友)
・堀場一雄(あの服部卓四郎、西浦進と同期で「陸軍三羽烏」といわれる)
・秩父宮雍仁親王(昭和天皇の弟、昭和13年からの途中加入)
がいました。
「…え、それだけ?」
と思ったあなたは正しい。実は作戦指導課なる物自体が石原莞爾の肝いりというか独断で出来た部署でして、ここのメンバーは石原莞爾が選んだ精鋭で構成されていたのです。
そこに途中加入したのが稲田正純でした。
…ともかくメンバーを見て貰えば分かるように、かなり個性的な集団の中での仕事はとても印象に残ったらしく、戦後、稲田はここの思い出を『稲田正純氏談話速記録』や『昭和陸軍秘話』などで語っています。
私が出たあとは堀場が中心にるってやっておったのですが、堀場のほかには高島という気狂いみたいなのがおりましたが、堀場,高島、それから今田新太郎という支那ゴロがおりましたが、そこらがやっておったですね。をい待て
『稲田正純氏談話速記録』p.184
http://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=fdAWAAAAIAAJ&dq=%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%9E%E4%B8%80%E6%B0%8F%E8%AB%87%E8%A9%B1%E9%80%9F%E8%A8%98%E9%8C%B2&q=%E4%BB%8A%E7%94%B0%E6%96%B0%E5%A4%AA%E9%83%8E#search_anchor
今田を捕まえて「支那ゴロ」とは何ですか品のない せめて「支那フェチ」とか「支那ヲタ」と言いなされヾ(^^;)
あと、高嶋さんやっぱり変でしたか…「不思議ちゃん」とは思ってましたが でも悪い人じゃないと思うよ!…たぶん…
今田と稲田の悪縁は続く。
今田が配属された第36師団ごと西ニューギニアのサルミに放り込まれてえらい目にあったのは今まで散々話したが、それに油を注いだのがどうも稲田らしい。
米軍が上陸した5日後の1944年4月26日に、飛行場などは連合軍の制圧下に入り、以後、連合軍は6月6日まで掃討戦を続けた。同日、現地での先任指揮官であった第6飛行師団長心得稲田正純少将は、日本軍の残存兵力を西部ニューギニアのサルミ方面へ撤退させることを決断した。しかし、サルミまでの400kmの道は非常に険しく、途中には100以上の川を越えなければならなかった。渡河の際、体力の低下が激しかった将兵たちは、豪雨の影響もあり激流に流され、そのまま死亡する者も多かった。さらに、食料が著しく不足していた上にマラリアの感染者も多く、発熱して道に倒れたまま死んでいく者も多かった。そのためホーランジアとサルミ間の道は白骨化した死体が続く惨状となった。ホーランジアにあった第18軍関係部隊の人員6600人の内、1-2ヶ月後にサルミに到着した者はわずかに約500人に過ぎなかったちなみにサルミというのが今田の所属していた第36師団の本部のあった場所。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#.E3.82.B5.E3.83.AB.E3.83.9F.E3.81.B8.E3.81.AE.E6.92.A4.E9.80.80
更にこの稲田の決断が第36師団に更なる苦難をもたらすことに。以前、第36師団旗下の松山部隊が無茶な援護作戦を命じられてえらい目にあったことは書いたことがあるが、実はこの稲田が放棄したホーランジアを奪回すべく命じられた作戦だったのである。
その後、稲田は様々に所属を変えつつも最後は本土にて終戦。今田は補給も止められ連絡もない状態のままニューギニアにて終戦。最も稲田は戦後戦犯に問われて刑務所に入っていたようですが、それも昭和26年(1951年)には出所してその後昭和61年(1986年)に89歳の生涯を全うしてるのですから…どう見ても今田(昭和24年(1949年)に54歳で死去)に比べりゃ勝ち組ですよね…
<追記>
この稲田正純という人は、どうもあの悪名高い「ノモンハン事件」の関係者らしく、それに関心があった司馬遼太郎が一度対談したことがあったのですが、「しゃべりだけは達者だったが中味は何もなかった」…らしいです。
参考こちら
この稲田正純という人は、どうもあの悪名高い「ノモンハン事件」の関係者らしく、それに関心があった司馬遼太郎が一度対談したことがあったのですが、「しゃべりだけは達者だったが中味は何もなかった」…らしいです。
参考こちら
PR
Comment
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。