拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
「本藩人物誌」より
あ、そうそう。上記で述べた経緯に加え、若くして戦死した後菩提寺も建ててもらったことなどから、久朗は島津義久の愛人説もありますね(爆)
それと、島津家の発給文書の末尾にある老中署名では、久朗はあの伊集院忠棟より順番が早かったりします。
…いかん脱線した。
で、今回のネタの久国さんもなかなかの才能の持ち主だったらしく、さすがに祖父の久朗みたいに若年ではありませんでしたが50歳の時に島津家久(忠恒)家老となり、その後家久の息子・光久の代まで家老を務めます。
そんな久国さんの相手は渋谷重治(天文20年~?)の娘。 渋谷さんの当初の名前は「白浜重治」、白浜氏は東郷氏の分家。重治さんは島津貴久正室・雪窓妙安大姉の従兄弟で、島津義久の御使衆を勤めていました。家格的には川上家の方が上だったように見えます。
さて、そんな2人の結婚は…
だいたい意訳するとこんな所でしょうか。「レンシヤクアリ」というのがよく分からなかったのですが。
…で、この「背負い木」って花嫁乗せる物ですよね?多分。婿の久国乗せてるというなら…何か不気味だヾ(^^;)
を始め披露の席にいた面々は、この筵をなでてみて「やわらくていい物だよね~」と誉めていた(ちなみに裏付きの筵は当時の畳である)」
とだいたい意訳しましたが、大丈夫かな。
しかし、婚礼家具をぺたぺた触るって、いや~んヾ(^^;)しかも新婚初夜に使う物だぞみんないやらしいヾ(--;) ところがこれに似た習慣が20年ほど前の京都ではしっかり残ってまして(○。○)。結婚する前に花嫁道具を近所のみなさんに披露するという…今はこの習慣無くなってると思うのですが、多分。
内容はこんな所でしょうか。
なんか「3000石も領地あったのに、こんな貧乏くさい感じだったみたいよ」といわんばかりの文章のように感じたのは私だけかな。もっとも、この「本藩人物誌」が書かれたと推測される江戸時代後期、鹿児島藩を訪れた頼山陽は
「こんな底辺な所があるとは」
…とか言ってたらしいよ。久国のこと「家老クラスなのに貧乏くさいやーいやーい」と言える立場なのかしらん?>「本藩人物誌」の著者。
川上久国(天正9年5月5日~寛文3年4月17日)は、川上忠克のひ孫、川上久朗の孫に当たります。川上家の傍流だった上に、曾祖父忠克は甑島に流刑という日陰の家系…だったはずなのですが、祖父の久朗がまだ17歳の時に才能を認められ島津義久の老中に抜擢されるという大出世を遂げ、以後、実質的な川上家嫡流になっていった系統になります。川上因幡守久国入道商山
(中略)
○内室ハ渋谷次郎左衛門重治女也嫁スル時川上家ノ役人礼服ノ上二セヲヒ木トイフモノヲ負ヒ白帷子被シテ来ルトイフ是ハムカシ御当地ニハヤリシ物ノ由笈ノ様ナルモノニテレンシヤクアリカタニカケ足ヲ踏トムル軸アリテ人ヲノスルモノナリトソ扨其夜重治ヨリ裏ノ付タル筵二枚ヲ送ラル新婦ノ寝間ニ敷ヘシト也家来共ヲ初集会ノ面々是ヲナデテ見テ和ラカナヨロシキ物ト称美セシト也是当時ノ畳也是久国朝鮮帰陣以後也其比久国所領三千石余ナカラ宅中皆カヤムシロナリトソ
あ、そうそう。上記で述べた経緯に加え、若くして戦死した後菩提寺も建ててもらったことなどから、久朗は島津義久の愛人説もありますね(爆)
それと、島津家の発給文書の末尾にある老中署名では、久朗はあの伊集院忠棟より順番が早かったりします。
…いかん脱線した。
で、今回のネタの久国さんもなかなかの才能の持ち主だったらしく、さすがに祖父の久朗みたいに若年ではありませんでしたが50歳の時に島津家久(忠恒)家老となり、その後家久の息子・光久の代まで家老を務めます。
そんな久国さんの相手は渋谷重治(天文20年~?)の娘。 渋谷さんの当初の名前は「白浜重治」、白浜氏は東郷氏の分家。重治さんは島津貴久正室・雪窓妙安大姉の従兄弟で、島津義久の御使衆を勤めていました。家格的には川上家の方が上だったように見えます。
さて、そんな2人の結婚は…
「婿側の川上家の家臣が、礼服を着た上に「背負い木」(笈(山伏が背負っている四角いリュックみたいな物)に似ており、肩に掛け、足をのせる軸があり、人を乗せる)を背負って、白帷子をかぶせてやってきた。これは昔この辺りで流行だった物だ」川上家ノ役人礼服ノ上二セヲヒ木トイフモノヲ負ヒ白帷子被シテ来ルトイフ是ハムカシ御当地ニハヤリシ物ノ由笈ノ様ナルモノニテレンシヤクアリカタニカケ足ヲ踏トムル軸アリテ人ヲノスルモノナリトソ
だいたい意訳するとこんな所でしょうか。「レンシヤクアリ」というのがよく分からなかったのですが。
…で、この「背負い木」って花嫁乗せる物ですよね?多分。婿の久国乗せてるというなら…何か不気味だヾ(^^;)
「その夜、舅の渋谷重治から裏地の付いた筵を2枚送ってきた。これは新婦の部屋に敷く物である。(川上家の)家来達扨其夜重治ヨリ裏ノ付タル筵二枚ヲ送ラル新婦ノ寝間ニ敷ヘシト也家来共ヲ初集会ノ面々是ヲナデテ見テ和ラカナヨロシキ物ト称美セシト也是当時ノ畳也
を始め披露の席にいた面々は、この筵をなでてみて「やわらくていい物だよね~」と誉めていた(ちなみに裏付きの筵は当時の畳である)」
とだいたい意訳しましたが、大丈夫かな。
しかし、婚礼家具をぺたぺた触るって、いや~んヾ(^^;)しかも新婚初夜に使う物だぞみんないやらしいヾ(--;) ところがこれに似た習慣が20年ほど前の京都ではしっかり残ってまして(○。○)。結婚する前に花嫁道具を近所のみなさんに披露するという…今はこの習慣無くなってると思うのですが、多分。
「久国の領地は3000石余りあったけど、家の床はみんな萱筵だったんだって」久国所領三千石余ナカラ宅中皆カヤムシロナリトソ
内容はこんな所でしょうか。
なんか「3000石も領地あったのに、こんな貧乏くさい感じだったみたいよ」といわんばかりの文章のように感じたのは私だけかな。もっとも、この「本藩人物誌」が書かれたと推測される江戸時代後期、鹿児島藩を訪れた頼山陽は
「こんな底辺な所があるとは」
…とか言ってたらしいよ。久国のこと「家老クラスなのに貧乏くさいやーいやーい」と言える立場なのかしらん?>「本藩人物誌」の著者。
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