拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
まず、巻頭のこれを読んでずっこけてしまいました…
というのも伊集院忠真が「藩主」だったかどうかというのは怪しいのですよ。こちらの管理人さまが何をもって伊集院忠真を藩主と断定されたのかが分からないのですが…
まずは初歩から。「藩」とはなんぞや?
…徳川幕府が成立したとき(慶長8年2月12日(1603年3月23日))、伊集院忠真は既に死んでます(慶長7年8月17日(1602年10月2日)没)ので「徳川幕府の家臣」という条件は満たさないわけです。
こちらのブログの管理人の方が「伊集院忠真=藩主」とされた根拠を推定ですが無理矢理導くなら、おそらく石高でしょうか。父・伊集院忠棟は最終的には都城8万石の領主になりましたし、その後庄内の乱で減らされた物の頴娃1万石の領主ではあったわけです>忠真
ただ、伊集院家が後の「藩」に類するような「豊臣大名」だったかというと…うーん(^^;)。この辺は今ホットな研究テーマなのではないでしょうか。そういえば今年の大河の主人公もこの伊集院家と似たような立場のような。
もう一つ気になったのがこちら
それにしても、伊集院忠真に関する一般書というのは余り見たことがない。このブログの方は何を参考にしてこの記事を書かれたのだろう?
庄内の乱について言えば『島津義弘の賭け 』が比較的入手しやすい本だと思うが、たしか御下のことについてはそんなにつっこんでなかったような気がするのだが…。もう一つ頭に浮かんだのがこちらの本 ですが、地方出版の本なので余りお目にかかれないような…
直接コメントで質問しようかなと思ったりもしたのだが、YAHOO!ブログはmixi以上になれ合い上等の人が多いので…やっぱり放置してニヤニヤ見るだけにしておこう ヾ(^^;)
どっちにしろ、参考文献を書かない人は質問してもちゃんと回答してくれない人が多いんですよね(経験)
むー、く、くるしいヾ(^^;)伊集院忠真は日向国都之城藩の第2代目(最後)の藩主
そんでもって薩摩国帖佐藩の最初で最後の藩主
というのも伊集院忠真が「藩主」だったかどうかというのは怪しいのですよ。こちらの管理人さまが何をもって伊集院忠真を藩主と断定されたのかが分からないのですが…
まずは初歩から。「藩」とはなんぞや?
日本史で言う藩は、江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域と、その支配機構を指す歴史用語である。江戸時代の儒学者が中国の制度をなぞらえた漢語的呼称に由来する。
藩と云う呼称は、江戸時代には公的な制度名ではなかったためこれを用いる者は一部に限られ、元禄年間以降に散見される程度だった(新井白石の『藩翰譜』、『徳川実紀』等)。明治時代にはいり公称となり、一般に広く使用されるようになった。
そもそも「藩」の語は、古代中国で天子である周の王によってある国に封建された諸侯の支配領域を指し、江戸時代の儒学者がこれになぞらえて、徳川将軍家に服属し将軍によって領地を与えられた(と観念された)大名を「諸侯」、その領国を「藩」と呼んだことに由来する。江戸時代には「藩」の語は儒学文献上の別称であって、公式の制度上は藩と称されたことは無く、「何某家中」のような呼称が用いられていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantext.html#Anchor157727藩とは何か?
誤解を恐れずに言い切れば、1万石以上の所領を持つ大名の領地、ということになる。徳川幕府の家臣のうち、1万石を越える領地を持つものを大名と呼び、その領地及び行政機構を藩と呼ぶ。
…徳川幕府が成立したとき(慶長8年2月12日(1603年3月23日))、伊集院忠真は既に死んでます(慶長7年8月17日(1602年10月2日)没)ので「徳川幕府の家臣」という条件は満たさないわけです。
こちらのブログの管理人の方が「伊集院忠真=藩主」とされた根拠を推定ですが無理矢理導くなら、おそらく石高でしょうか。父・伊集院忠棟は最終的には都城8万石の領主になりましたし、その後庄内の乱で減らされた物の頴娃1万石の領主ではあったわけです>忠真
ただ、伊集院家が後の「藩」に類するような「豊臣大名」だったかというと…うーん(^^;)。この辺は今ホットな研究テーマなのではないでしょうか。そういえば今年の大河の主人公もこの伊集院家と似たような立場のような。
もう一つ気になったのがこちら
時系列を見ると「庄内の乱の終了後に島津御下と伊集院忠真が結婚した」と読みとれる構成です。これは、この記事のコメントで補強されています。慶長5年(1600年)3月15日に篭城の無駄を悟り降伏開城します!
だけど…島津家からの支配を離れて他家へ奉公を希望したんだけど島津忠恒が拒否!!
そんで再び篭城して徹底抗戦を決めますが…徳川家康の再度の仲介で和睦します!
日向国都之城から薩摩国帖佐2万石に移封され島津義弘の次女御下サンと結婚しますw
…うーむ、何を根拠にしてこういうこと書かれたんだろう。史料では御下は庄内の乱終了より前に伊集院忠真と結婚していることが明らかなのだが(苦笑)というのも、慶長5年2月18日(1600年4月1日)に御下は忠真の娘(千鶴)を産んでいるのですよ(拙HP参照)。それともこちらのブログの管理人の方は島津義弘がどこぞの訳のわからん子を身ごもった娘を罰ゲームとして忠真に押しつけたと言いたかったんだろうか(爆)結局は御下サンと結婚させる事で島津家は伊集院忠真を身内として抱込んで薩摩屋敷に軟禁したんですよ!
それにしても、伊集院忠真に関する一般書というのは余り見たことがない。このブログの方は何を参考にしてこの記事を書かれたのだろう?
庄内の乱について言えば『島津義弘の賭け 』が比較的入手しやすい本だと思うが、たしか御下のことについてはそんなにつっこんでなかったような気がするのだが…。もう一つ頭に浮かんだのがこちらの本 ですが、地方出版の本なので余りお目にかかれないような…
直接コメントで質問しようかなと思ったりもしたのだが、YAHOO!ブログはmixi以上になれ合い上等の人が多いので…やっぱり放置してニヤニヤ見るだけにしておこう ヾ(^^;)
どっちにしろ、参考文献を書かない人は質問してもちゃんと回答してくれない人が多いんですよね(経験)
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