拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
拙HPでもお世話になっている「本藩人物誌」(『鹿児島県史料集』13)は江戸時代後期に書かれた戦国時代~江戸時代初頭の島津家家臣の人名事典です。人名は苗字を「いろは」の順で並べています。同じ音の苗字の場合は漢字の画数じゃなくてその一族の権勢によって優先度が決まるみたい(^^;)。例えば「い」なら伊集院氏が一番で伊地知氏や伊勢氏は後回しです。
…ですが、このいろは順から外れる人物が存在します。
最も”反逆者”でも後に島津家に帰順した人は先のいろは順の方にも伝記が載っているのでややこしい。
では、江戸時代後期”島津家の反逆者”と見なされた人たちはどういう人たちだったのか…。その名簿をここに公開。
…ですが、このいろは順から外れる人物が存在します。
- 女性
- ぼうさん
- 島津家に反逆した人(○。○)
最も”反逆者”でも後に島津家に帰順した人は先のいろは順の方にも伝記が載っているのでややこしい。
では、江戸時代後期”島津家の反逆者”と見なされた人たちはどういう人たちだったのか…。その名簿をここに公開。
順番はいろは順ではありません。年代順かと思えばそうでもないような。しかし、ある程度のルールを以てジャンル分けしているように見えます。
まだまだ続きますが、ここでいったん切ります。
- 島津実久:言わずと知れた薩州家5代目当主様です。
- 和泉忠辰:薩州家7代目当主、実久の孫です。名前を見て「アレ?」と思った方、あなたは鋭い。忠辰は島津家が豊臣秀吉に負けたときに改姓したとする説に基づいて、島津姓で書かれてないのです。
- 島津忠辰:上の忠辰とは別人。実久の弟らしい。
- 島津忠房:実久の叔父らしい。
- 新納忠躬:上記忠房と連合して実久に味方したらしい。
- 川上忠克:当初実久側に付いたらしい。島津義久といろいろ噂のあるらしいヾ(^^;)川上忠朗の父である。
- 辺川忠直:実久側に付いたらしい。
- 島津安久:実久側に付き、上記辺川忠直に加勢したという。子孫は「迫水」に改姓。
- 島津昌久:実久側に付き、島津忠良と戦って戦死。この人の奥さんは実は忠良の姉だったりする。
- 伊地知周防守重貞:実久側に付くも大永7年5月殺害されたという。
- 桑波田孫六:当初島津忠良に付いたが後に実久側に付いたという。ちなみに父は島津忠兼(=勝久)の家老だったという。
- 多田頼益(義治):実久側に付くが、弟・日高義秋が島津忠良家老・伊集院忠朗の調略に落ち、それを聞いた実久によって逆に殺されたという。
- 河野道能:実久側に付くが、島津忠良が弟・道吉を通じて調略、しかしそれが実久にばれて自殺したという。
- 町田久用:実久が一宇治城を落としたときに実久の命で一宇治城代となった人物という。のち島津忠良に攻撃されて降参。
- 土橋勘解由左衛門尉:実久の命で伊集院長崎塁なる所を守ったという。
- 否笠氏
- 有殿田氏
- 関氏
上記3氏は土橋勘解由左衛門尉と共に伊集院長崎塁を守っていたという。 - 石谷忠栄:実久側に付くが、天文5年12月7日に島津忠良に降参。この名前では分からないが、実は町田忠栄と同一人物である。子孫は代々島津家家老となっている。
- 肥後盛治:実久側に付くが島津忠良に攻撃されて自殺。
- 大山内蔵助:実久の命により加世田城を守るが、天文7年12月29日に忠良が攻撃したときに戦死したらしい。
- 大山宮内少輔
- 平田豊前守
上記2氏は加世田城で戦死。 - 大浦氏:加世田城を実久の命で守っていた武将の一人。戦死したかどうかは未詳。
- 相徳新左衛門尉:加世田城を実久の命で守っていた武将の一人。妻子を落ち延びさせた後、自分一人帰城して戦死。
- 大寺越前守:実久側に付き、加世田城が島津忠良に攻撃されたときに援軍に向かおうとしたが間に合わなかったらしい。その後は忠良に降参したとも糾されたともされるが詳細未詳。
- 市来家保:薩州家家臣。加世田にて戦死。
- 鎌田加賀守:川辺高城城主で実久側に付くが、天文8年3月に島津忠良に降参。実は鎌田政真と同一人物で、その後島津貴久の親密な家臣となったらしく、貴久死後は出家して全国を巡礼したという。
- 平田宗秀:谷山苦辛(くらら)城主、天文8年3月に島津貴久に降参。実は実久の譜代の家臣だったが、忠良が調略をかけているという噂が立ち薩州家にいられなくなって降参したという(「本藩人物誌」”ひ”平田宗秀)
- 谷山駿河守
- 伊集院山城守
- 松崎丹波守
- 勝目兵庫允
- 市来縫殿助
- 高城右衛門
- 永井大炊介
上記7人は実久の武将で谷山神前城を守っていたが、天文8年3月24日、島津貴久に降参したという。 - 山田有親:日置城主で実久側に付くが、天文2年12月2日島津忠良に降参。しかし同月24日、忠良の家臣の言上により殺されたという。あの山田有信の祖父である。
- 伊地知左近将監重貞:上記既出の同姓同名の人物とは別人らしい。大永7年7月23日伊作東城にて島津忠良と戦い戦死。
- 谷山播磨守:谷山本城の城主という。討死した。
- 佐多久昌:佐多氏を名乗っているが傍注に「薩州家一族」とあり、また系譜未詳の人物らしい。永禄年間、薩州家が渋谷氏を攻撃したときに功績があったことなどや、忠辰が豊臣秀吉に降参したときに久昌は弟・久元を人質として一緒に降参したことから見て、実久の家臣ではなく、その息子の義虎や孫の忠辰の家臣であると思われる。
- 肝付兼続:有名人に付き説明略
- 肝付良兼:兼続の長男、母は島津忠良の長女・御南。
- 肝付兼定:兼続の次男。
- 肝付兼輔:一般的には「肝付兼亮」で有名。”兼続三男”とあるが、早世した兄がいるので本当は五男。
- 肝付兼則:”兼続四男”とあるが本当は六男。
以下肝付氏家臣の一覧がある
- 北原兼守:北原氏は肝付家分家の一つ。伊東義祐や北薩の他の国人と連合して島津忠良・貴久に抵抗するが子供無く没したことで伊東氏の介入を招き、以後北原氏は一気に没落する。
以下北原氏家臣の一覧がある
- 伊地知重興:伊地知氏は肝付家分家の一つ。妻は禰寝重就の娘。その関係から肝付兼続・禰寝氏と連合して島津忠良・貴久親子と戦うが、後に降伏する。
以下伊地知氏家臣の一覧がある
- 蒲生範清:上記北原兼守らと連合した北薩国人の一人。激しく抵抗した物の島津氏に破れ、そのご祁答院良重、良重死後は入来院氏を頼ったという。
- 蒲生為清:範清の息子。島津氏が豊臣秀吉に負けたとき、それに乗じて秀吉に謁見し領地復興を計ったとされ、自害させられたという。
以下蒲生氏家臣の一覧がある
- 肝付兼演:上記肝付氏の分家。天文6年頃、島津忠良と島津実久が対立したときに実久側に付いたため「国賊」扱いになったと思われる。天文18年5月から11月にかけて島津忠良・貴久側の猛攻により、同年12月に降参、旧領・加治木もそのまま安堵され、その後子孫は島津氏の家老職となっている。
- 禰寝重長:大隅国根占(現鹿児島県南大隅町)の領主。肝付兼続、伊地知重興らと連合して島津忠良・貴久親子と戦うが、後島津義久の調略に応じて降参する。
以下禰寝氏家臣の説明がある
- 新納忠勝:新納家本家8代当主。先代から島津本宗家に対抗する姿勢があったらしい。後述する本田薫親とも連合していたという。享禄頃から肝付氏・北郷家・島津豊州家とも対立するようになり敗戦、没落し妻の実家である伊東氏を頼った。但し、「本藩人物誌」の著者が後注で疑問として書いているように、この頃肝付氏・北郷家・島津豊州家は島津実久側に付いていて忠勝はそれに反対した、とあり、その観点から見ると忠勝は”国賊”に入れる条件に当てはまらないのだが…。
- 本田薫親:大隅国姫木(現鹿児島県霧島市国分)等を領した有力領主。島津貴久と対立し、遂に天文17年庄内(現鹿児島県都城市)に逃亡したという。先述の島津実久や肝付兼続より「悪逆」「暴虐」と説明が惨い。領地内にあった大隅正八幡宮(現鹿児島神宮)と激しく対立したせいだろうか。ちなみに島津氏は大隅正八幡宮を手厚く保護している。
- 菱刈重州:北薩の有力国人の一人。相良氏と連合して島津氏に反旗を翻すも後島津家に降参。重州が島津氏に反抗したのは母が島津実久の姉だったからだろう。
- 菱刈重豊:重州の嫡男?弘治3年4月15日島津氏との戦いで戦死。
- 菱刈重猛:重州の息子。渋谷氏・蒲生氏らと連合して島津氏に対抗したが永禄4年には島津貴久から領地を与えられており早々帰服したらしい。
- 菱刈隆秋:重州三男。重猛が早世し、その子供(後の菱刈重広)が5歳だったため家督代となる。この頃の菱刈氏は島津氏に帰服していたが、この隆秋の時に再び相良氏と連合を組み激しく島津氏と争うようになる。永禄12年に降参。
このあと「渋谷党」(東郷氏、祁答院氏、入来院氏の出身氏族)の説明がある。 - 東郷重治:東郷氏十五代当主、薩州家と争ったという。
- 東郷重尚:重治の養子(実父は先述の菱刈重州)、渋谷党を中心とした東郷・入来院・祁答院・菱刈・蒲生のいわゆる「北薩国人連合」を組み、島津貴久に対抗する。抵抗は激しかったが、遂に薩州家・島津義虎の前に敗北する。
以下東郷氏家臣の一覧がある
- 祁答院重武:北薩の有力国人・祁答院家の十二代当主。天文4年、島津勝久が家老・川上昌久を誅殺したときに勝久家臣の多くは薩州家・島津実久を頼った。その時に重武と北原氏は勝久に救援を求められ加勢したという。どうも島津忠良・貴久親子と直接対決したことはないようだが、”国賊”にされてしまったのは勝久というぼんくらに味方したので一緒くたにされたのかも知れないヾ(^^;)
- 祁答院良重:重武の息子。東郷氏・菱刈氏らと連合を組み島津貴久に対抗するも天文23年の岩剣城の戦いで負け没落。その後妻に暗殺されると言う衝撃の最期を閉じたのは拙HPでも紹介済み。
- 祁答院重経:良重の嫡男だが父に先立ち岩剣城の戦いで戦死。
以下祁答院氏家臣一覧がある
- 入来院重朝:入来院氏十二代当主。入来院重聡の息子なので島津義久・義弘・歳久には母方の伯父でもある。「本藩人物誌」では「外戚の権威を笠に着て日々驕奢となった」とある。東郷氏、祁答院氏らに荷担したという噂が立ち領地を減らされる。
- 入来院重嗣:重朝の息子。記述を見ると特に島津氏に表立って反抗したわけではないようだが、父親の関連か”国賊”に記載されてしまっている。
まだまだ続きますが、ここでいったん切ります。
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