拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
「戦国いい話悪い話」などでも紹介されているので、ご存じの方も多いかと思いますが
寛永7年(1630年)10月、島津亀寿が亡くなったときに島津家久(忠恒)は江戸にいたが、亀寿付きの女中とおぼしき”おいま”という女性に手紙を送った。そこには何故か超不仲であった亀寿への挽歌が書いてあったのだが…その内容はとんでもない物だった。
ところが、「島津家メモ」のこの記事によると、こういう意見があったそうである。つまり、伊地知季安が濁点を写し忘れたのではないか?という物。
実はこういうことは割とある話なのである。
例えば、島津歳久の末裔家の旧蔵文書であった「日置島津家文書」でも、「薩藩旧記雑録」に所収された物は文章として意味が通らなかったのだが、その後、尚古集成館が買い取った文書に「薩藩旧記雑録」と所収されている文書の原書があり、よくよく見るとシミのように見えていたのが濁点だった、それで読み直すと意味が通ったという物が1点あるそうである(「尚古集成館所蔵の日置島津家文書について」『尚古集成館紀要』4)。
そうなると、「島津家メモ」で紹介されているような、まあ平凡というか無難な内容の和歌になる。
しかし、気になるのは最初書いたとおり、超不仲の元正室の死に際して何で挽歌を送ったのか?ということ。挽歌を送るくらいなら、3回忌の法要ちゃんとしろ厨恒!と言う所だがヾ(^^;)
もしかしたら挽歌を送るついでに、”おいま”に何かの探りを入れていたのではないかという気がするが…残念ながらこの挽歌に対してのおいまの返信などが残っていないので、家久(忠恒)が何を企んでいたのかはなんとも分からないのだが…。
この後、亀寿が父・島津義久から相続した島津家の宝物を家久(忠恒)の家老・山田有栄に引き渡したときの担当が”おいま”であるところからみて、”おいま”は宝物の管理を担当していた重要な女中なのではないかと思われる。この宝物は元和8年(1622年)に家久の次男である虎寿丸(後の島津光久)に相続されることに決定していた物の、寛永7年当時はまだ亀寿が保管していた。宝物の状況は島津家当主であった家久(忠恒)には非常に気になるところであっただろう。
敢えて強引に推測すると、実は亀寿への挽歌は建前であって、本当の用件は「島津家宝物のこと」だったのでは無かろうか。亀寿の死後半年でそれらの宝物は島津家久(忠恒)の家老が回収した-つまり亀寿の遺志に反して島津家の宝物は光久ではなく家久(忠恒)の所有に帰してしまったことからそう考えてみたが、いかがであろうか。
寛永7年(1630年)10月、島津亀寿が亡くなったときに島津家久(忠恒)は江戸にいたが、亀寿付きの女中とおぼしき”おいま”という女性に手紙を送った。そこには何故か超不仲であった亀寿への挽歌が書いてあったのだが…その内容はとんでもない物だった。
この和歌については家久(忠恒)ホンネストレートに出しすぎだろという内容なのでヾ(--;)、桐野作人氏のブログのこの記事でもやりとりしたことがある。が、結論は出なかった。あたし世の 雲かくれ行 神無月 しくるる袖のいつはりもかな
(この10月に亀寿は亡くなってしまった、涙で袖は絞れるほどである…というのは嘘!)
ところが、「島津家メモ」のこの記事によると、こういう意見があったそうである。つまり、伊地知季安が濁点を写し忘れたのではないか?という物。
実はこういうことは割とある話なのである。
例えば、島津歳久の末裔家の旧蔵文書であった「日置島津家文書」でも、「薩藩旧記雑録」に所収された物は文章として意味が通らなかったのだが、その後、尚古集成館が買い取った文書に「薩藩旧記雑録」と所収されている文書の原書があり、よくよく見るとシミのように見えていたのが濁点だった、それで読み直すと意味が通ったという物が1点あるそうである(「尚古集成館所蔵の日置島津家文書について」『尚古集成館紀要』4)。
そうなると、「島津家メモ」で紹介されているような、まあ平凡というか無難な内容の和歌になる。
しかし、気になるのは最初書いたとおり、超不仲の元正室の死に際して何で挽歌を送ったのか?ということ。挽歌を送るくらいなら、3回忌の法要ちゃんとしろ厨恒!と言う所だがヾ(^^;)
もしかしたら挽歌を送るついでに、”おいま”に何かの探りを入れていたのではないかという気がするが…残念ながらこの挽歌に対してのおいまの返信などが残っていないので、家久(忠恒)が何を企んでいたのかはなんとも分からないのだが…。
この後、亀寿が父・島津義久から相続した島津家の宝物を家久(忠恒)の家老・山田有栄に引き渡したときの担当が”おいま”であるところからみて、”おいま”は宝物の管理を担当していた重要な女中なのではないかと思われる。この宝物は元和8年(1622年)に家久の次男である虎寿丸(後の島津光久)に相続されることに決定していた物の、寛永7年当時はまだ亀寿が保管していた。宝物の状況は島津家当主であった家久(忠恒)には非常に気になるところであっただろう。
敢えて強引に推測すると、実は亀寿への挽歌は建前であって、本当の用件は「島津家宝物のこと」だったのでは無かろうか。亀寿の死後半年でそれらの宝物は島津家久(忠恒)の家老が回収した-つまり亀寿の遺志に反して島津家の宝物は光久ではなく家久(忠恒)の所有に帰してしまったことからそう考えてみたが、いかがであろうか。
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