拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前の話はこちら
『歴史読本』2009年4月号の巻頭コラムは
「戦国女性の姓・苗字・名」坂田聡
でした。
坂田氏についてはこちら参照。申し訳ないのですが全く存知ませんでした(中央大学の史学って余り…だし)。しかし、経歴を見ると「日本の人名の歴史の専門家」といって間違いないと思います。
巻頭コラムは、今までの通説とは違う話も紹介されており、非常に興味深い内容でした。かなり長文ですので、要点のみ紹介します。
なかなか興味深い論ですが、細かい点を見ていくといくつか疑問も生じます。
『歴史読本』2009年4月号の巻頭コラムは
「戦国女性の姓・苗字・名」坂田聡
でした。
坂田氏についてはこちら参照。申し訳ないのですが全く存知ませんでした(中央大学の史学って余り…だし)。しかし、経歴を見ると「日本の人名の歴史の専門家」といって間違いないと思います。
巻頭コラムは、今までの通説とは違う話も紹介されており、非常に興味深い内容でした。かなり長文ですので、要点のみ紹介します。
- 「姓」と「苗字」の違いについて
日本史に関心のある人は既に周知のことではありますが、「姓も苗字も一緒じゃないの?」という方は先にこちらをご覧下さい→苗字(名字)、姓(氏)
坂田氏曰く「姓は”氏”という集団の名前、苗字は家の名前」とのこと。
姓(氏)は天皇に奉仕する集団の呼称であるため、天皇が上から与える物。苗字は財産の相続(基本的には父から嫡男への先祖代々の相続)により「家」制度が成り立ってくるのに対してそのシンボルとして下から誕生した物。苗字の成立は財産相続が分割相続から単独相続に変わっていく14世紀(南北朝)頃ではないか。 - 女性の「姓」と「苗字」
鎌倉時代以前は女性も「姓」を持っており、結婚しても変わることはなかった(例:平政子)。逆に「藤原氏女」「源氏女」という形で姓しか名乗らないことも多かった。これは女性も「氏」の集団の一因として認められていたからである。
しかし、室町時代以降になり苗字が一般化すると、同じ「家」に属する夫婦は同じ苗字を使うことになる(坂田氏によると16世紀の前半に丹波国山国荘の女性「さいま」は鶴野”家”の出身だったが結婚先の「井本」という苗字を名乗っている。が、このように苗字を変えたという例が分かる方が珍しいことから考えて、女性は苗字を使う機会がなかったのではないかと考えられる。つまり”姓”より”苗字”が一般的に使われるようになると、公的な行事に出てくることの少ない女性は”姓”も失い”苗字”も名乗る機会がなかったのではないか。 - 「名前」について
近世以前の男性はいくつもの名前があるのが普通であった。成長に応じて童名→<成人(烏帽子成り)>字(仮名)→<官途成り>官途名→<入道成り>法名と変わっていった。他に「源頼朝」の”頼朝”のように”姓”とセットで使われる実名もあった。このようにいくつもの名前を変えていくのが当時の一人前の社会人として認められた男性であった。が、一生童名で過ごさざるを得ない男性も存在した。その人達は要は子供同様=「一人前の人」として認められない、差別された人であった。
近世以前の女性については、鎌倉時代までは「平政子(=北条政子)」のように姓と実名を持つ者もいるが、一方で成人なのに「亀女」「松女」といった動物・植物名や「釈迦女」「薬師女」といった仏教・神道に関わる名前を名乗っている女性が見られる。このような名前は男性の童名の特徴と共通しており、要は成人したのに一人前と見なされてない人間であると考えられる。室町・戦国時代になると- 生涯童名を名乗る(=子供同様半人前扱い)このパターンの名前が増加する
- 男性名+女(例:「衛門太郎女」「平内女」など)を名乗る、これは家の長である男性の名前を付けて名乗っているもので、(1)同様女性の地位が低下したことを示している
- 法名、つまり尼さん。これも嫁取婚が一般化すると共に夫の死後再婚せず子供の成人まで「後家」として家を守り、夫や「家」の先祖を供養することが義務となっていったことが関係していると考えられる。
- 室町・戦国時代になると大半の女性が生涯童名を通さねばならなかった。つまり年齢と共に名前を変える男性とは明らかに区別されていた。名前を変えられない男性下層民同様の「半人前」の存在であった。
- 戦国時代に家制度が成り立つと、家長である男性のみが家を代表するようになり、すべての公的な場から閉め出された女性は「○○妻」「○○母」と言った表記に見られるように「家長の付属物」としてみられて童名すら名乗れないケースが増えた
なかなか興味深い論ですが、細かい点を見ていくといくつか疑問も生じます。
- 女性が”姓”を使わなくなり”苗字”も名乗る機会が無くなり名前も生涯ほとんど変わらなくなる室町~戦国時代を女性の地位の低下のターニングポイントと坂田氏は考えてられるようだが、鎌倉時代以前の大半の女性の名乗り(”姓”+女)も実名を名乗ってないのだから、女性の地位の低下を表している物と見られるのではないか。例えば「尊卑分脈」では紫式部は「藤原為時女」とされ実名は書いてないし、平安時代にさかのぼる史料「小右記」で「越後守為時女」と書かれるなど紫式部の実名が分かる物はない。
- 江戸時代以降になると年齢や立場の変化によって呼び名が変わる女性がいる事が分かる(『江戸の少年 (平凡社ライブラリー)』等で実例が紹介されている)。これは男性の名前の変化と関連があるのかどうか。今回の論で言及した時代の範疇から外れるためかだろう、比較などはなかったのが残念。
PR
Comment
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。