拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
アクセス履歴をたどっていったときに偶然見つけた物なのだが
その他おまけ
省略した箇所に関する感想です
新城島津家は寛永13年(1636)垂水島津家四代久信の二男久章を初代として創設されました。太守家久娘を室とし化粧料一千石をもらい祖母(新城様)の三千七百石をもって四千七百石で新城家が創設されました。家久は娘婿の久章に国家老や大番頭の重職に就かせ,義兄弟にあたる光久の信任も厚く、寛永16年光久の名代として将軍家へ年頭の挨拶の為江戸へ出発しましたが登城せず,家老達の必死の説得により将軍に拝謁しました。その後帰国を命じられ、谷山清泉寺で殺されました。新城島津家は一代にしてお家断絶となり50年後長子忠清に継がせました。13代久治まで続き明治2年私領を返還しました。その後は末川家を名乗り現在にいたっています。いくつか疑問点があるのだが
(後略)
http://www.tarumizu.info/spot/history/60/
家久は娘婿の久章に国家老や大番頭の重職に就かせ島津久章が家老とかに就任した事ってあったっけな?(゜_。)?(。_゜)?
寛永16年光久の名代として将軍家へ年頭の挨拶の為江戸へ出発しましたが登城せず,家老達の必死の説得により将軍に拝謁しました。1624年(寛永16年)に島津光久の名代で江戸に行かされたのは諸史料にもあり事実と思うが、その後の経緯については確か諸説紛々だったと記憶しているが…なおこの紹介文では省略しているが、帰国を命じられたのは「登城せず」に原因があったのではなく(そもそも久章が登城をサボったのかどうかも諸説あり)、帰国途中の京で失踪し高野山に逃げ、そこで捕まって強制的に帰国させられたのだ(「薩藩旧記雑録 後編6」)。
新城島津家は一代にしてお家断絶となり50年後長子忠清に継がせました。50年後じゃなくて8年後でごわす…(1645年(正保2年)断絶、1653年(承応2年)再興)
その他おまけ
省略した箇所に関する感想です
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無題
ばんない様
前にコメント差し上げた末川です。社長を退任された方は、江戸中期に垂水家からの分かれです。
社長の家とよく間違われます。家紋が違い、拙宅は丸十の変形ですが、あちらの方は二階菱です。
間違いの原因は垂水市史にあります。家内の祖父が、執筆者の方に文書を見せなかったので、市史は正確さを欠きます。迷惑しています。
歴代の中で、家老になったのは、七代の久備だけです。初代の江戸での動向もよく分かりません。ただの球磨の相良家の騒動に関係しているような
感じもします。
久章兄の久敏の母親は、後で相良家に嫁ぎます。垂水市の久敏の墓の戒名は、垂水市史料集では久章の戒名です。現在風化しているので墓石から読みとるは不可能です。
御家の再興ですが、二代の時には、家は再興されますが、新城を所領としていません。新城を取り戻した時を新城家再興というのか、二代の時を再興というのか難しいです。ただ、市史の歴代の没年等は、いい加減です。
市史では二代から末川を名乗っています。家臣の子孫の方々は、先祖は新城島津家に仕えていたといっています。
黎明館の方では、区別するため新城島津(末川)
家と紹介しています。
今後とも零細分家の拙宅を、貴ブログで話題にしていただければありがたいです。
前にコメント差し上げた末川です。社長を退任された方は、江戸中期に垂水家からの分かれです。
社長の家とよく間違われます。家紋が違い、拙宅は丸十の変形ですが、あちらの方は二階菱です。
間違いの原因は垂水市史にあります。家内の祖父が、執筆者の方に文書を見せなかったので、市史は正確さを欠きます。迷惑しています。
歴代の中で、家老になったのは、七代の久備だけです。初代の江戸での動向もよく分かりません。ただの球磨の相良家の騒動に関係しているような
感じもします。
久章兄の久敏の母親は、後で相良家に嫁ぎます。垂水市の久敏の墓の戒名は、垂水市史料集では久章の戒名です。現在風化しているので墓石から読みとるは不可能です。
御家の再興ですが、二代の時には、家は再興されますが、新城を所領としていません。新城を取り戻した時を新城家再興というのか、二代の時を再興というのか難しいです。ただ、市史の歴代の没年等は、いい加減です。
市史では二代から末川を名乗っています。家臣の子孫の方々は、先祖は新城島津家に仕えていたといっています。
黎明館の方では、区別するため新城島津(末川)
家と紹介しています。
今後とも零細分家の拙宅を、貴ブログで話題にしていただければありがたいです。