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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前回の話はこちら



前回は天文16年辺りまでの感想を箇条書きで追っかけてきました。
今回はそれ以降について。
また長文が多いので、ご興味のある方は下にある「つづきはこちら」ボタンをクリック。


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・…前回の最後辺りで島津貴久を喰う?勢いだった本田董親だったが、天文17年に“内訌”が発生する。これに巻き込まれるのを恐れた大隅正八幡宮(現・鹿児島神宮)の要請を元に貴久はこれに介入、本田氏の押さえ込みに成功した。なお、この“内訌”について諸史料では「董親が暴君だったから」としているが、真相は謎。ちなみにこれを日新斎に知らせてきたのが肝付省鈞(兼続、島津日新斎忠良の長女・御南の夫)なのだが、この事件が伏線となったものか後に対立してしまう…皮肉(p.115~118)
なお、本田氏はこのときに領地の一部を貴久に安堵された物の、和睦からわずか3ヶ月後の天文17年8月に再び貴久に反旗を翻したところ逆襲され、親族であった(本田董親の娘が北郷時久の正室)北郷忠相を頼って逃亡、本田氏はあっさり没落してしまったのでした…(p.120~121)。ところが、北郷忠相はこれに先立つ天文17年6月に既に島津貴久と隠密契約を結んでいたそうで、その後の本田董親・重親親子の消息はいまいちはっきりしない。ちなみに、この隠密契約の中に「北郷氏と対立している肝付兼続と手切れする」旨の話があり、その結果先述のように、島津氏と肝付氏は後に対立することになったのでした。

・種子島氏は近衞家の庇護下にあった本能寺に深く帰依していた。明応4年(1497)には種子島忠時、天文17年には恵時(忠時の息子)が参詣のために上洛している。また本能寺は天文法華の乱(天文5年)の時に全焼しているが、翌天文6年(1547)に日承上人(伏見宮邦高親王の子)が種子島に下向し種子島氏に本能寺再建費用を求めるなど、有力な檀家となっていた(p.134)
→このつながりが、本能寺に島津義久後室円信院殿の墓がある理由なのかも

・天文23年(1554)、いったん和睦していた菱刈氏・祁答院氏に北原氏が合流し、島津氏と対立、岩剣城の戦い(岩剣合戦)勃発。ちなみに、この戦いが島津義久(当時「義辰」)、義弘(当時「忠平」)、歳久の初陣なのは有名(p.140)
→…なのだが、その年齢が歳久18歳はまあそうかなと思うのだが、義弘は20歳、義久に至っては22歳…って遅すぎない?

・天文24年(1555)3月27日には囮の部隊を使った攻撃で祁答院勢を撃破。これが「釣りのぶせ」の史料上の初出らしい(p.143)
・残る蒲生範清を攻撃するかどうか、貴久は同年4月9日に大隅正八幡宮でくじ引きを行っている。この後蒲生氏との交渉がうまくいかなかったらしく、更に27日にもう一度くじ引きをしている。翌日には北原氏の対応についてまたまたくじ引きをした。(p.144)
→くじ引き自体はこれが最初…とは書いてなかったのだが、これ以降は重要な決断の際にはくじ引きを行う傾向が強くなるそうだ。
・蒲生城包囲戦は天文24年(1555)4月から弘治3年(1557)4月まで3年の長期戦となったが、特に弘治3年3月22日の戦いは激戦で、貴久、義辰(義久)、忠平(義弘)、歳久が揃って太刀を振るったという。記録によれば親子4人が同じ合戦で戦ったのはこの1回だけらしい(p.146)
・蒲生城陥落後、貴久は制圧した大隅国始羅郡に「地頭」を配置した。いわゆる「地頭衆中制」だが、天文17年に大隅国府制圧(先述の本田董親追放?事件)の後にも地頭を配置した物の、この蒲生城陥落後から地頭衆中制が確立したと言える。これによって、家臣の大規模な動員や長期の遠征が可能になったのである(p.148)。

・でっち上げとして超有名ヾ(--;)な天文3年の「三宅国秀事件」だが、これに絡んだ島津家の老中というのが島津勝久(忠兼)の老中だった伊地知重武と村田武秀(p.152)
→なお、勝久は当初頴娃氏(※鹿児島湾の入り口の要所に領地を持っていた)の養子となっており、また後室を禰寝氏(※同じく鹿児島湾の入り口の要所に領地を持っていた)を迎えたことから、著者の新名氏は「島津勝久は制海権確保と貿易統制の指向性が強かった」大名としています。
・同じ頃、島津貴久(虎寿丸)は当時有力な貿易港だった坊津の一乗院に入り学業修行しており、やはり貿易の重要性を肌で感じていたと思われる。なお、この一乗院では息子の義久も学業修行している(「三国名勝図会」)。(p.153~155)

・種子島氏は先述のように京都に近衞家・本能寺経由の独自ルートを持ち、日明貿易を介して細川家ともつながりがあった。琉球王朝からも、島津氏とは独立した「国主」として「君臣関係」を築こうとしたとされるなど独立性が強かった。(p.156~157)
・しかし、天文9年頃、種子島恵時・時堯(当時「直時」)親子が対立するに及んで、恵時は島津貴久に支援を求め、直時は禰寝清年に支援を求めたらしい。この内訌は結局当初直時側に付いていた種子島時述(恵時の弟/直時の叔父)が誅殺され、直時が「時堯」と改名し当主となることで決着した(p.158~159)
→この「種子島氏の御家騒動」については諸史料によって書いてある内容がかなり異なるようです。なお、著者の新名氏は「種子島家譜(※『鹿児島県史料』所収)」より古い史料として「種子島譜」というのを紹介されているのですが、これ翻刻とかweb上で公開とかされてないようで…_| ̄|○
なお、この直後にいわゆる「鉄砲伝来」事件があったのですが、種子島氏はこれを有効に活用したらしく、足利将軍家とも島津家を介さず独自に交渉するなど、簡単には独自性を失わなかったようです(p.162)。

・フランシスコ・ザビエルは天文18年(1549年)、島津貴久やその母(御東)と面会をしキリスト教を伝道したのだが、それは通訳のアンジローが「デウス=大日如来、聖母マリア=観音菩薩」と不正確な伝え方をしたもので、貴久たちが正しくキリスト教を理解したわけではなかった。また、ザビエルも鹿児島の布教には余り興味がなく、本当の目的は早く京都に上洛し、国王(天皇or将軍)から布教許可をもらうことだった。しかし、貴久はなかなかザビエルに上洛の許可を与えなかった(ザビエルをテコにポルトガルと通商関係を築こうとしたからではないかと考えられる)(p.165~167)。
→その後、ザビエルの布教で島津氏の重臣にもキリスト教信者になる者が出たことなどから、仏教界から反発が起こったことなどもあり、ザビエルは貴久を振り切って上洛してしまったのでした(p.171)。しかし、ポルトガル貿易が諦めきれない貴久、永禄4年(1561)にイエズス会とインド副王に宛てて書簡を送ったらしい。が!!!この文書、残念な事に原本は行方不明_| ̄|○ 写しはローマのイエズス会文書館に現存(p.172)当時島津氏は先述で触れた肝付氏との戦争中で、どうもそれに巻き込まれて山川港に来泊中のポルトガル船の船員が死亡した事件があったらしく、それを詫びる内容もあるらしい(p.176~177)。
ところで、これに関して著者の新名氏は「キリスト教嫌いの息子義久と違い、貴久は通商優先の立場から(中略)ある程度キリスト教保護を実行した」(p.179)と書いているのだが、どの史料を根拠にして「キリスト教嫌いの息子義久」と考察されたんだろうか。ちなみに、島津忠良(日新斎)がキリスト教+一向宗を嫌っていたのは有名(この本のp.178でも言及されています)。

・永禄3年(1560)3月頃、豊州家島津氏の領地をめぐり、島津氏と伊東氏+肝付氏の対立は決定的となり、貴久次男・忠平(=義弘)が豊州家島津氏の本城・飫肥城に入場した。一方で伊集院忠朗による仲介工作も行われていたらしく、何と時の将軍・足利義輝が仲介人となり和平交渉が行われたものの、伊東義祐が強硬だったためうまくいかなかったらしい。ちなみに、この時の和平交渉の条件の中にちゃっかり「油津港は将軍家の直轄領とする」というものが入っていた。油津港は日明貿易などの中継港として栄えており、どさくさに紛れて利権を横取りするつもりだったらしい>義輝(p.184~185)
→ちなみにこの時伊東氏は「うちは足利義政公から薩隅日支配の権利があるという“三カ国の袖判”をもらったんだよ!!!」…と“三カ国袖判”なる文書を義輝の使者に見せたそうなのですが、これが明らかな偽書だったそうで_(。_゜)/。義輝も義祐もみんなワルよのう…ヾ(^^;)

・永禄5年(1562)の正月から2月頃に、散々島津氏を苦しめてきた北原氏の当主・兼守が死去。兼守には子供がいなかったため、跡目を巡って北原民部少輔(兼孝?兼守の叔父)、伊東義祐(※娘が北原兼守室)、北原兼親(※後見が相良頼房(義陽))が争い、更に伊東氏の介入を嫌った北原氏家臣が島津貴久に支援を願うなど大混乱状況に陥り、同年6月11日に伊東氏を追い出した残り(北原氏、北郷氏、相良氏、島津氏)により起請文が書かれる物の、翌年にはこの同盟はあっさり崩壊、北原氏の本拠地・飯野城は島津忠平(義弘)居城となり、北原兼親は伊集院に移されたのだった(p.191~193)
→なお、北原氏はこのあと比志島義基(伊集院忠棟の弟)の次男が後を嗣ぐも、その後がはっきりせず、完全に没落したようです…北原氏自体がこういう曰く有りの家柄だった上に、後を嗣いだのが忠棟の甥じゃ仕方ないところでしょうか…。

・貴久はお経を読んでいる最中に頓死するという最期を遂げるが、これは毒キノコにあたったのが原因らしい(p.209)



以上で気になったところピックアップ終了。
貴久本人の伝記と言うよりは、室町時代中期から戦国時代の島津氏の歴史といった内容ですね。
また、この本のp.203~205、p.213~214辺りで言及されてますが、貴久の功績の多くが、実は父・日新斎忠良による物じゃないかという疑念が…と言うか、史料の多くはそういう書き方になっているようなヾ(^^;)実際の所はどうだったんでしょうか。
最も、史実でも忠良はこの時代の人にしてはかなり長生き(77歳没)で、貴久はキノコにあたったのかどうかはともかく、忠良の死後わずか3年で後を追いかけます。偉大なるご隠居様時代ヾ(^^;)がわずか3年しかないんじゃどうしようもないですわね。

ともかく忠良おじいちゃんがすごすぎて、やっぱりなんか霞んでしまってかわいそうな貴久なのでした。
(おしまい)

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