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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
こちらの本を入手しました 『島津貴久』(戎光祥出版)
中学以上で歴史を習った人は、名前ぐらいは知っているかも。フランシスコ・ザビエルのキリスト教日本伝来に絡んだ人なので、必ず名前が教科書に載っているからです。…が、全国500万人(嘘w)の戦国史ヲタにどれほど名前が知られているかというと、かなり微妙かも知れない。絶対息子の義弘の方が有名人だろう。
と言う事で証拠
島津貴久で検索すると「約 41,800 件 (0.46 秒) 」
島津義弘で検索すると「約 366,000 件 (0.41 秒) 」
ほーらやっぱり義弘圧勝じゃないか_| ̄|○
ついでに
島津義久で検索すると「約 113,000 件 (0.32 秒) 」…ひ、ひきこもりの長男にすら敗北されるとは…・゚・(´Д⊂ヽ・゚・(ヲイ)

-話を戻す。
『島津貴久』は、こんなにも影の薄い戦国武将をとりあげた貴重な一冊です。
ただ実際に読んでみると、貴久の伝記と言うよりは、南九州の戦国時代を取り上げた一冊と言った方が良い内容かな。
先日ようやく入手して読んでみました。ご興味のある方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ。





以下、250ページの本に戦国島津氏に興味のある人には読みどころの多い内容なので、気になったところを箇条書きで。

・島津貴久(大永7年当時元服前と見られ「虎寿丸」を名乗っていた)が、島津勝久(当時「忠兼」)に家督を悔い返されて薩隅日が大混乱状態になっていたとき、豊州家島津忠朝が和平工作を行うが、この裏にいたのが日明貿易で豊州家と提携していた大内義興(p.67)
→大内家の日明貿易は対馬の宗家経由だとばかり思っていたので、この関係には驚いた。後に島津義弘が大内義弘にあやかって改名したという言い伝えが菩提寺の妙円寺に伝わっているが、この関係が背景にあるの、かも。
なお、鹿児島の日明貿易や対外関係については、同書のp.149~150でまとめられている。この頃には日本で一番いけてた場所だったらしい?鹿児島ヾ(^^;)。これに関してはこういう話も紹介されている。
・フランシスコ・ザビエルが鹿児島にやってきたとき、同地の武将から庶民に至るまでに歓迎されたという。また、アンジロー(※ザビエルの元で初めてキリスト教信者となった日本人)のインド情報をみんなが求めたがったという。また、アンジローが殺人を犯したためにポルトガル船に範日本から逃亡したのは天文15年(1546)の山川港からだったと考えられ、ここから、当時既に山川港が国際貿易港となっていたこと、また「南蛮人」が鹿児島では珍しくもない存在だった可能性が考えられる。(p.164~165)

・享禄年間(1528~32)から天文5年(1536)まで「島津又六郎」という謎の武将が登場するが、これは島津貴久のことではないか(p.70)
→なお、この後貴久の三男・島津歳久も「島津又六郎」を名乗っている。ちなみに貴久の息子に「又三郎(義久)」「又四郎(義弘)」「又六郎(歳久)」「又七郎(家久)」はいるが、「又五郎」はなぜか欠番。

・天文4年、いったん貴久から守護を奪い返した勝久(元「忠兼」)だったが、結局力がないため、薩州家島津実久を擁立しようとした老中・川上昌久等と対立し、昌久を殺害してしまう。が、これがきっかけとなり逆に実久に追放されてしまう。
この時に豊州家島津忠朝と北郷忠相は右衛門大夫(忠朝の甥・島津忠隅)を使者として実久に送って実久を守護として認めたらしい(p.73~75)
→島津家で「右衛門大夫」といえばあの伊集院忠棟を思い浮かべてしまう、が、もう一人島津家に右衛門大夫がいたらしい(^^;)
・が、この時既に豊州家+北郷氏は虎視眈々と新納氏領を狙っており、この理由から新納忠勝は島津実久を守護として認めなかったらしく、新納忠勝は逆に島津忠良/貴久と勝久の仲直りを画策したが、間に合わずに豊州家・北郷氏に攻撃され降伏、領地を追われ、新納本家は没落したそうである…が、この時の新納忠勝の工作のお陰で忠良/貴久は後に実久を追い出して守護に復帰する。(p.76~78)
→ちなみにこの新納本家の没落の余波で、浪人になっていた新納分家メンバーを忠良/貴久親子はスカウトするのだが、その中の一人があのデニーロ新納忠元。

・天文8年(1539)四月吉日、伊集院忠朗と村田経貞が連署して伊佐智佐権現に対して坪付を発給している(「旧記前」2-2354)(p.87)
→著者の新名氏によると、島津氏の老中制度の確立を示す史料の一つらしい。なおご存じの人が多いとおもうが、伊集院忠朗は先述の忠棟の祖父で島津相州家譜代家臣、村田経定の村田家は守護大名島津氏(奥州家)の老中を代々勤めてきた家系であり、「相州家は譜代家臣に奥州家老中を加える形で、新たな老中制度を構築した」(「戦国期島津氏の家督相続と老中」山口研一)あらわれという。

・天文8年閏六月十七日、市来攻略の一環として市来本城の西側にある平之城を攻略し始めるが、それまでは相州家単独で闘ってきたが、この戦いで従属御一家(島津氏の親戚)、国衆を動員して初めて合戦を行った。後世の諸系譜などでこの戦いへの従軍がよく書かれるのは、島津貴久を祖とする戦国/近世大名島津氏に早くから忠節を尽くしてきたことをアピールするのに最も適した戦いと認識されていたからだろう(p.89)

・天文8年7月1日に島津一瓢斎運久(島津忠良の養父)が71歳で死去。(p.91)
→著者の新名氏は虎寿丸(貴久)養子の件や享禄の和平会議(p.69~72)など要所要所に運久が必ず登場していること、貴久の元服に運久の元服時の作法が参照されていることなどから、島津忠良/貴久の功績の裏には実は運久がいたのじゃないかと考えていられるようだ。虎寿丸(貴久)養子入りで相州家が本宗家家督を奪取しようとしたのも運久の父・友久が家督を継げなかった(p.15)件の逆襲だったのではないかと考えていられるようだが…。
運久には実は実子がいたのは拙HPで指摘しているが、実子ではなく、わざわざ他家(伊作島津家)の子供(=忠良)を連れ子養子にして跡継ぎにした、という手続きを踏んだのも、以前から気になっているのだが…。これに関しては運久の祖母が伊作島津家出身(なので伊作家と相州家は親戚)というのが関係があるのかも知れないが、どうなんだろ。意外に謎が多い運久。
なおおまけですが、「島津家文書」所収の島津運久像がp.31で紹介されていますが、恐らく一般書では初公開と思われます。
・応永18年(1407)8月6日、奥州家島津元久は自分の妹と伊集院頼久との間に生まれた初犬千代丸を後継者にしようとしたが、これを不服とした島津久豊(元久弟)が、領地の日向国穆佐院(むかさいん)から遠路はるばる鹿児島の福昌寺に向かい、元久の位牌を略奪、福昌寺の領地を安堵するなど、強引な手段で自身を当主とした。
永享11年(1439)2月18日、当時福昌寺の三世住持となっていた仲翁守邦(ちゅうおうしゅほう、島津元久嫡男(1379~1445))は「本寺大檀那」である島津持久(=用久、薩州家初代当主)に対し、先述の久豊の領地安堵と諸役免除を求め、持久から袖判をもらっている。この頃持久は薩隅日守護職を巡って兄・島津忠国と対立しており、仲翁守邦は持久を「大檀那」とすることで、この持久の行動を承認・正当化したと考えられる(p.92~93)
→これは戦国時代より前の室町中期頃の話で、著者の新名氏は島津氏菩提寺・福昌寺と島津本家家督との関係について述べるためにわざわざ古い話を書かれたのだが、私的には先述の「実子がいるのに他の子を継嗣とした」と言う例として非常に気になる。島津元久と仲翁守邦については拙ブログで問題提起だけして放置状態なのだが(^^;)、実はこの文に出て来た島津持久と兄弟ゲンカヾ(--;)していた島津忠国の息子・立久(島津本家10代当主)も当初薩州家の島津国久(ちなみに島津持久(用久)の息子である)を養子とし、長男・忠昌は最初はお寺に修行に出されていたという(p.18)。実は実子が継承できないのが当たり前だったのか?島津氏???

・島津貴久が「薩隅日三カ国太守」を自認した翌年の天文10年(1541)12月、豊州家島津忠朝、北郷忠相、禰寝氏(清年?)、伊地知(重武)、廻氏(久元?)、敷寝氏(頼賀?)、上井氏(為秋?)、本田董親、肝付兼演、祁答院(良重)、入来院重朝、東郷重治の計13人が、樺山善久の居城・生別府城(おいべっぷじょう、現鹿児島県霧島市)を攻撃・包囲した。樺山善久は島津貴久の姉婿である。一方、入来院重朝は貴久義兄(妻の兄)であり、肝付兼演は大永初年の虎寿丸(貴久)の家督奪取「クーデター」に関わった人物であり(p.52~57)、そういう貴久と関わりが深かった人物が加わって善久を攻撃した背景には、貴久が「太守」化した事への反発が大きかったことが考えられる(p.102~103)
→この後、樺山氏はしばらく持ちこたえた物の、島津貴久は交渉で13人衆の切り崩しをする方向に転換し、結局、本田董親に生別府城はじめ樺山氏の領地をあてがうことで懐柔して切り崩したようです。樺山氏は永正18年(1511)に以前の本拠地だった日向国野々三谷城を北原氏の攻撃により退去させられて(p.38)からわずか30年後に新しい本拠地も追われることになったわけで…気の毒すぎる。最も著者の新名氏によると「これにより樺山善久は島津日新斎(忠良)/貴久親子から厚い信頼を受けることになり、重臣として島津氏の躍進を支えていくことになる」(p.104)のだそうです。樺山家については興味深いのでいろいろ書きたいと思いつつ全く手が着けられない_| ̄|○

・天文14年(1445)春、参議・町資将(1518~55)が京都から近衞邸建築費用の調達のために下向していた。ところがこの重要な使者への対応は貴久の直臣ではなく国衆の本田董親が行っていた。(p.112)
→元々本田家は国衆ではなく島津本家の家臣だったのですが、先述の樺山氏攻撃の時からその実力で独立勢力として認めざるをえなくなっていたようです(p.105)。本田董親は連歌師・高城珠長などを通じて京都とつながりがあったので貴久が接待を任せていた可能性が高いようですが(p.111)、その結果、独立性を高めていた本田董親は益々”暴走”しヾ(^^;)、天文15年には官位獲得のために近衞家・町資将らに唐物などの貢ぎ物を送るなどの工作を重ね、遂に同年9月15日には董親長男・重親(兼親)に「従五位下左京大夫」をもらうことに成功しています(p.113)。何でこんなのに交渉任せてしまったのか貴久。これは脇が甘いと言われても仕方ないかも。
実はこんな暴走(ヲイ)をしていたのは本田氏ばかりではなく、菱刈氏、種子島氏も正式の官位を貴久より先にもらってしまい、菱刈氏(重州)に到っては、貴久の実家である相州家の名乗り「相模守」の名乗りを正式にもらっています(著者の新名氏はこれは島津貴久への対抗意識の表れだろうとしています p.114)。そればかりか、近隣大名の伊東義祐や相良長唯(義滋)にも官位獲得競争で先を越されてしまいます。貴久は当初官位の獲得には関心がなかったみたいです。謎。新名氏もこの辺には深く突っ込んでなかった_| ̄|○。しかしこの状態ではそうも言ってられず、後に追い上げに苦労することになります(p.133~136)。



長くなってきたので、ここでいったん切ります。
つづく。

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