拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
公式HPはこちら
苦労の末、行って参りました(つ_`;)
前回の特別展「平清盛」より、観客多かったです(ヲーイ)
やはり金金満満で豪華で視覚に訴えますからねヾ(^^;)
それに比べて「清盛」は文書(それも崩し字で難解)ばっかりヾ(--;)
特に島津関連の物というのはなかったのですが、やはり戦国~安土桃山時代の空気を感じる品々がそろってたと思います。もう会期末が迫ってますので、関西の人は急げ。
個人的に気になったことなど
苦労の末、行って参りました(つ_`;)
前回の特別展「平清盛」より、観客多かったです(ヲーイ)
やはり金金満満で豪華で視覚に訴えますからねヾ(^^;)
それに比べて「清盛」は文書(それも崩し字で難解)ばっかりヾ(--;)
特に島津関連の物というのはなかったのですが、やはり戦国~安土桃山時代の空気を感じる品々がそろってたと思います。もう会期末が迫ってますので、関西の人は急げ。
個人的に気になったことなど
今回のメインはサブタイトルにもあるように「泰西王侯騎馬図屏風」なのですが、
これの遍歴はかなり変わっています。
会津若松城
↓ ↓
松平家 前原一誠
↓ ↓
某 池長孟→神戸市立博物館
↓
サントリー美術館
まず、会津若松城では当初ふすま絵だったらしい(城の中で浮いてただろうな…)
がその後時期不明ながら屏風になる(その時は八曲一双で顔の真ん中がぶった切られていたらしい)
ここまでは分かっているが、実はいつ頃からこの絵が会津若松城に存在していたのか、記録を見てもはっきりしないらしい(こんなど派手な絵なのに?!)
その後、戊辰戦争が流転の運命の始まり。
会津若松城城主・松平容保が完膚無きまでに官軍の前に敗れ、白虎隊他多くの悲劇があったことは有名な話だが
この絵も左隻は前原一誠の要望により、松平家から贈呈される(ということに池長孟の覚え書きでは書いてある)。
その後前原家で所蔵していたが、昭和7年(1932年)に当時南蛮美術コレクターとして有名だった池長の手に渡ったわけである。この時、絵は屏風から外されていた。当初池長はこの絵の所有者は大村益次郎と聞いていたので、入手に難儀したらしい。
さて、池長さんは安土桃山時代の南蛮文化というのに崇拝に近い憧れを持っていた人のようで、この屏風も当初から「キリシタンの蒲生氏郷が持っていたに決まっている」とすっかり決めつけてしまい(^^;)、「キリシタン風の表装をしよう!」と決意、莫大なお金を掛けた表装は…南蛮風かどうか分からないが(をい)、かなりど派手な物にはなった。ちなみにこの時表装を手伝わされたのが『のらくろ』の田河水泡氏。
一方の右隻も、太平洋戦争で当初は大村伯爵家の蔵に、そこも危なくなると会津若松へと疎開の連続。
何とか焼けるのは免れたが、その後個人蔵となる。これはばんないの推測だが、戦後の華族の困窮は松平家も同じで、生活のために売却されたのではないかと思われる。
そしてさらにサントリー美術館に売却されたのであった。
一方、ど派手な表装をされた左隻。神戸大空襲もなんとか乗り切り、池長氏の死後、膨大なコレクションの一つとして神戸市立博物館の所蔵となる。
さて私が気になるのは、この絵の、特に左隻の経歴。
池長氏の記述では「前原一誠の要望により、松平家が贈呈した」とあるが
戦争の後でのこと、これをそのまま受け取るわけにはいかない。
実際は前原の強引な押しに、松平家が押し切られてしまったのが実情ではないだろうか。それははっきり言って強奪も同然だったのではないかと思われる。
そこで拙ブログのネタの島津さん。
実はここも意外や意外明治以後の強奪被害に遭っている。
西南戦争の時、島津家関連の神社などがあらかた官軍の強奪に合い、先祖伝来の宝物でめぼしい物はなくなってしまったのである。
この話は拙ブログのこの記事で書いている。
現在それらの宝物の多くが未だに消息不明だが…この屏風のようにまだどこかで眠っているかも知れない。
特に亀寿の肖像画!ヾ(^^;) 私はまだ希望を捨ててませんよー
これの遍歴はかなり変わっています。
会津若松城
↓ ↓
松平家 前原一誠
↓ ↓
某 池長孟→神戸市立博物館
↓
サントリー美術館
まず、会津若松城では当初ふすま絵だったらしい(城の中で浮いてただろうな…)
がその後時期不明ながら屏風になる(その時は八曲一双で顔の真ん中がぶった切られていたらしい)
ここまでは分かっているが、実はいつ頃からこの絵が会津若松城に存在していたのか、記録を見てもはっきりしないらしい(こんなど派手な絵なのに?!)
その後、戊辰戦争が流転の運命の始まり。
会津若松城城主・松平容保が完膚無きまでに官軍の前に敗れ、白虎隊他多くの悲劇があったことは有名な話だが
この絵も左隻は前原一誠の要望により、松平家から贈呈される(ということに池長孟の覚え書きでは書いてある)。
その後前原家で所蔵していたが、昭和7年(1932年)に当時南蛮美術コレクターとして有名だった池長の手に渡ったわけである。この時、絵は屏風から外されていた。当初池長はこの絵の所有者は大村益次郎と聞いていたので、入手に難儀したらしい。
さて、池長さんは安土桃山時代の南蛮文化というのに崇拝に近い憧れを持っていた人のようで、この屏風も当初から「キリシタンの蒲生氏郷が持っていたに決まっている」とすっかり決めつけてしまい(^^;)、「キリシタン風の表装をしよう!」と決意、莫大なお金を掛けた表装は…南蛮風かどうか分からないが(をい)、かなりど派手な物にはなった。ちなみにこの時表装を手伝わされたのが『のらくろ』の田河水泡氏。
一方の右隻も、太平洋戦争で当初は大村伯爵家の蔵に、そこも危なくなると会津若松へと疎開の連続。
何とか焼けるのは免れたが、その後個人蔵となる。これはばんないの推測だが、戦後の華族の困窮は松平家も同じで、生活のために売却されたのではないかと思われる。
そしてさらにサントリー美術館に売却されたのであった。
一方、ど派手な表装をされた左隻。神戸大空襲もなんとか乗り切り、池長氏の死後、膨大なコレクションの一つとして神戸市立博物館の所蔵となる。
さて私が気になるのは、この絵の、特に左隻の経歴。
池長氏の記述では「前原一誠の要望により、松平家が贈呈した」とあるが
戦争の後でのこと、これをそのまま受け取るわけにはいかない。
実際は前原の強引な押しに、松平家が押し切られてしまったのが実情ではないだろうか。それははっきり言って強奪も同然だったのではないかと思われる。
そこで拙ブログのネタの島津さん。
実はここも意外や意外明治以後の強奪被害に遭っている。
西南戦争の時、島津家関連の神社などがあらかた官軍の強奪に合い、先祖伝来の宝物でめぼしい物はなくなってしまったのである。
この話は拙ブログのこの記事で書いている。
現在それらの宝物の多くが未だに消息不明だが…この屏風のようにまだどこかで眠っているかも知れない。
特に亀寿の肖像画!ヾ(^^;) 私はまだ希望を捨ててませんよー
PR
Comment
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。
島津家も
昭和三年の売りたてで良い物が大分・・・。
私はお茶を嗜んでいるので、
松屋肩衝(大名物)だけは
残して欲しかったですねえ。
ちなみに根津嘉一郎が当時の12万9千円で
落札した由・・現代で換算したら約5億7320万。
茶入一つがなんとまあ・・ですね。
国宝「那智滝図」も島津家から出たと
聞いたのですが。
2月に九博で細川、今月にそれこそサントリーで
毛利をみて来ただけになんか悔しいです(汗
図書館で「公爵島津家蔵品入札目録」を
コピーして来ようと思ってます。
私はお茶を嗜んでいるので、
松屋肩衝(大名物)だけは
残して欲しかったですねえ。
ちなみに根津嘉一郎が当時の12万9千円で
落札した由・・現代で換算したら約5億7320万。
茶入一つがなんとまあ・・ですね。
国宝「那智滝図」も島津家から出たと
聞いたのですが。
2月に九博で細川、今月にそれこそサントリーで
毛利をみて来ただけになんか悔しいです(汗
図書館で「公爵島津家蔵品入札目録」を
コピーして来ようと思ってます。
「公爵島津家蔵品入札目録」
コメントありがとうございます。
昭和3年(1928年)に売却したということは、前年の金融恐慌に巻き込まれた可能性が高いですね。実は図書館で『しらゆき 島津忠重・伊楚子回想録』という本を読んだのですが、余りその辺のことは書いてなかったような。思い出したくない記憶だったのかも知れません。
この頃は文化財の保有者が華族(元公家、大名)から根津氏のような資産家に移っていく時代ですね。今でもそうですが、茶道関係の物は高騰する傾向がありました。
>2月に九博で細川、今月にそれこそサントリーで
毛利をみて来ただけになんか悔しいです
「細川」は京都国立博物館で去年の秋やった「細川家の至宝」でしょうか。サントリーの毛利の展覧会の方は、NHKの『日曜美術館』で拝見しました。雪舟の大作が出てましたね。元々は大内の所有っぽいですが。
毛利はわかんないですが、細川はその時の当主(護立)がうまく財産を管理したみたいですね。
お茶をされているなら、特に細川はその辺の蔵品が豊富なので悔しかったことと思います。尚古集成館の蔵品見てると、島津は斉彬関係の物だけ持ってりゃいいわ、という感じだったのでしょうか。戦後に島津家文書まで売却してしまいましたしねえ(ため息)
ところで
>「公爵島津家蔵品入札目録」
何故か手元にある(爆)
後でちょっと見てみますね。
昭和3年(1928年)に売却したということは、前年の金融恐慌に巻き込まれた可能性が高いですね。実は図書館で『しらゆき 島津忠重・伊楚子回想録』という本を読んだのですが、余りその辺のことは書いてなかったような。思い出したくない記憶だったのかも知れません。
この頃は文化財の保有者が華族(元公家、大名)から根津氏のような資産家に移っていく時代ですね。今でもそうですが、茶道関係の物は高騰する傾向がありました。
>2月に九博で細川、今月にそれこそサントリーで
毛利をみて来ただけになんか悔しいです
「細川」は京都国立博物館で去年の秋やった「細川家の至宝」でしょうか。サントリーの毛利の展覧会の方は、NHKの『日曜美術館』で拝見しました。雪舟の大作が出てましたね。元々は大内の所有っぽいですが。
毛利はわかんないですが、細川はその時の当主(護立)がうまく財産を管理したみたいですね。
お茶をされているなら、特に細川はその辺の蔵品が豊富なので悔しかったことと思います。尚古集成館の蔵品見てると、島津は斉彬関係の物だけ持ってりゃいいわ、という感じだったのでしょうか。戦後に島津家文書まで売却してしまいましたしねえ(ため息)
ところで
>「公爵島津家蔵品入札目録」
何故か手元にある(爆)
後でちょっと見てみますね。