拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
某所で
「戦国武将で“長政”という名前の人多いよね」
ということがかなり以前から話題になっている。
思い浮かぶだけでも
・浅井長政
・黒田長政
・浅野長政
・山田長政
他にも
・木沢長政
・織田長政
・池田長政
・市橋長政
・木造長政
という方もいるらしい。
しかし思ったのだが
「長政さん集団(^^;)には負けるけど義久さんという名前の戦国武将も多いよね」
「戦国武将で“長政”という名前の人多いよね」
ということがかなり以前から話題になっている。
思い浮かぶだけでも
・浅井長政
・黒田長政
・浅野長政
・山田長政
他にも
・木沢長政
・織田長政
・池田長政
・市橋長政
・木造長政
という方もいるらしい。
しかし思ったのだが
「長政さん集団(^^;)には負けるけど義久さんという名前の戦国武将も多いよね」
まず何と言っても拙ブログのネタの宝庫ヾ(--;)
・島津義久
あと
・佐竹義久
・尼子義久
辺りも有名かな。
検索して調べてみると
・秋元義久
という人もいるらしい。
この方々に共通するのは…
不遇な晩年or最期
という点(○。○)
まず、拙ブログを御覧の方ならご存じのように島津さんちは例の婿に(以下略)
佐竹さんちは徳川家康に拝謁後、「毒殺では」とも言われる急死
尼子さんちは毛利氏に敗北後、幽閉される
秋元さんちは…知らなかったので(スイマセン)今回検索して調べたら、籠城戦の末自害だって(○。○)
義久は…どうも余り縁起の良い名前じゃないようだ…
※全国の「義久」のみなさん、臥してお詫びします<(_ _)>
拙ブログ関連ネタ 姓名判断は当たらない?
・島津義久
あと
・佐竹義久
・尼子義久
辺りも有名かな。
検索して調べてみると
・秋元義久
という人もいるらしい。
この方々に共通するのは…
不遇な晩年or最期
という点(○。○)
まず、拙ブログを御覧の方ならご存じのように島津さんちは例の婿に(以下略)
佐竹さんちは徳川家康に拝謁後、「毒殺では」とも言われる急死
尼子さんちは毛利氏に敗北後、幽閉される
秋元さんちは…知らなかったので(スイマセン)今回検索して調べたら、籠城戦の末自害だって(○。○)
義久は…どうも余り縁起の良い名前じゃないようだ…
※全国の「義久」のみなさん、臥してお詫びします<(_ _)>
拙ブログ関連ネタ 姓名判断は当たらない?
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無題
コメントありがとうございます。
>一番困るのは祖父や孫とか近い代での、諱ループですね(; ̄ェ ̄)
島津氏で言うと「家久」ですね。
実は先代(をい)家久が死んだ後に忠恒は家久に改名したので、年代はかぶってないのですが、後世の人間にとっては同時代に同じ名前の人がいるので、厄介この上ないです(笑)
島津義弘は大内義弘にあやかったという説があるのですよ。拙ブログでも一度ネタにしています。
あと有名どころでは里見義弘とかですか。
>一番困るのは祖父や孫とか近い代での、諱ループですね(; ̄ェ ̄)
島津氏で言うと「家久」ですね。
実は先代(をい)家久が死んだ後に忠恒は家久に改名したので、年代はかぶってないのですが、後世の人間にとっては同時代に同じ名前の人がいるので、厄介この上ないです(笑)
島津義弘は大内義弘にあやかったという説があるのですよ。拙ブログでも一度ネタにしています。
あと有名どころでは里見義弘とかですか。
足利義久
時代は少しずれますが、関東公方の足利持氏は嫡男に義久を名乗らせています。それが引き金で永亨の乱となり、持氏・義久ともに自害……。関東の戦乱はここから始まるので、『義久』は感慨深い名前です。
『よしひさ』なら足利義尚も含まれますね。
『よしひさ』なら足利義尚も含まれますね。
あしかがよしひさ
高村さん、こんばんは。
足利義久という人物がいましたか。この人は全く知りませんでした。関東では永享の乱から戦国時代に一足早く突入するという説が有力だそうですね。
考えれば「義」は足利家の通字なので他にも「義久」がいそうですが、この人一人だけなのは、やはり余りにも縁起でもない最期を忌避した物でしょうか。
>義尚
大河ドラマ『花の乱』では、TOKIO松岡が壮絶な最期を迎える義尚を演じていて、その時に義尚を救いに来たものの間に合わなかった藤岡弘、演じる大内政弘のかっこいい乗馬シーンと相まってすごく印象に残っていたのです…が、後でそれがすべて脚本家の市川森一氏による脚色と知ったときのショックといったら(苦笑)
足利義久という人物がいましたか。この人は全く知りませんでした。関東では永享の乱から戦国時代に一足早く突入するという説が有力だそうですね。
考えれば「義」は足利家の通字なので他にも「義久」がいそうですが、この人一人だけなのは、やはり余りにも縁起でもない最期を忌避した物でしょうか。
>義尚
大河ドラマ『花の乱』では、TOKIO松岡が壮絶な最期を迎える義尚を演じていて、その時に義尚を救いに来たものの間に合わなかった藤岡弘、演じる大内政弘のかっこいい乗馬シーンと相まってすごく印象に残っていたのです…が、後でそれがすべて脚本家の市川森一氏による脚色と知ったときのショックといったら(苦笑)
賢王丸
ばんない様
「義~」を関東公方が名乗れなかったのは将軍家との確執があったためです。関東公方は、
基氏→氏満→満兼→持氏→(義久)→成氏(以下古河公方)
となります。初代基氏は兄で2代将軍義詮の弟でここまでは仲が良かったんですが、早くも氏満から雲行きが怪しくなります。名乗りの上からも義満・氏満と並んでしまったので「互角?」みたいな感じになるんですね。で、義満は「富士遊覧」と称し威嚇遠征を行ないます。まずいと思った息子は素直に偏諱を受け「満兼」と名乗ります。その息子も渋々義持の偏諱を受けて「持氏」と名乗りますが、息子のいない義持の後継を狙っていたようです。ところが義教に将軍の座を奪われてぶち切れ、周囲の反対を押し切って嫡男賢王丸に義久を名乗らせ「本当の将軍はこっち」アピールをします。結局永享の乱で滅ぼされ、持氏末子に継がせ、義成(義政)からの偏諱で成氏と名乗ります。でも途中で反抗して古河に移る、と。
……長文失礼しました。この辺の話題って殆ど出ないので、つい嬉しくなってしまいました。ご参考になれば。
「義~」を関東公方が名乗れなかったのは将軍家との確執があったためです。関東公方は、
基氏→氏満→満兼→持氏→(義久)→成氏(以下古河公方)
となります。初代基氏は兄で2代将軍義詮の弟でここまでは仲が良かったんですが、早くも氏満から雲行きが怪しくなります。名乗りの上からも義満・氏満と並んでしまったので「互角?」みたいな感じになるんですね。で、義満は「富士遊覧」と称し威嚇遠征を行ないます。まずいと思った息子は素直に偏諱を受け「満兼」と名乗ります。その息子も渋々義持の偏諱を受けて「持氏」と名乗りますが、息子のいない義持の後継を狙っていたようです。ところが義教に将軍の座を奪われてぶち切れ、周囲の反対を押し切って嫡男賢王丸に義久を名乗らせ「本当の将軍はこっち」アピールをします。結局永享の乱で滅ぼされ、持氏末子に継がせ、義成(義政)からの偏諱で成氏と名乗ります。でも途中で反抗して古河に移る、と。
……長文失礼しました。この辺の話題って殆ど出ないので、つい嬉しくなってしまいました。ご参考になれば。
関東公方
重ね重ねのコメントありがとうございました
>この辺の話題って殆ど出ない
いやいや、関東公方ってネットではコアなファンがいそうですが(苦笑)
そういえば将軍偏諱は当初は下一字をまいていたのですが、末期になると上一字の「義」をまきまくりですね。それくらい立場が弱くなってたかららしいですが。拙ブログのネタの島津家で言えば、分家でも将軍偏諱「義」をもらって“島津義虎”と名乗ってる人がいます。
>この辺の話題って殆ど出ない
いやいや、関東公方ってネットではコアなファンがいそうですが(苦笑)
そういえば将軍偏諱は当初は下一字をまいていたのですが、末期になると上一字の「義」をまきまくりですね。それくらい立場が弱くなってたかららしいですが。拙ブログのネタの島津家で言えば、分家でも将軍偏諱「義」をもらって“島津義虎”と名乗ってる人がいます。
分家で「義」偏諱は凄いですね
東国だと、信玄・謙信・政宗のファンが殆どで、後北条と真田くらいが例外ですかね。関東公方・管領の方が劇的なんですが……。
東で「義」の偏諱を貰ったのは今川義忠・義元と武田義信ですが、どちらも非業の最期を遂げているので余り験は良くない印象があります。
東で「義」の偏諱を貰ったのは今川義忠・義元と武田義信ですが、どちらも非業の最期を遂げているので余り験は良くない印象があります。
「義」
コメントありがとうございます。
関東公方などが中味が派手な割に人気が今ひとつなのは、これまた人気が今ひとつ盛り上がらない戦国初期に活躍?した武将だからなのかなと思いました。
>島津義虎
この人の父・島津実久が実質的に守護に付いていたという説が有力でして、島津忠良/貴久親子(義久の祖父/父)と対立しています。子の義虎は忠良/貴久親子に従っていますが、足利将軍から偏諱もらってますね。この辺は単に「薩州家が分家とは言え本家も一目置く実力を持っていた」という理由付けがされていることが多いように思います。
>今川義忠・義元と武田義信
これは確かに縁起が悪いですね。
東国と言うより奥州になりますが、最上義光も足利義輝から偏諱をもらってますね。しかも後々直接拝謁もしているというのがすごい。しかし義光も晩年が悲惨でした…。
関東公方などが中味が派手な割に人気が今ひとつなのは、これまた人気が今ひとつ盛り上がらない戦国初期に活躍?した武将だからなのかなと思いました。
>島津義虎
この人の父・島津実久が実質的に守護に付いていたという説が有力でして、島津忠良/貴久親子(義久の祖父/父)と対立しています。子の義虎は忠良/貴久親子に従っていますが、足利将軍から偏諱もらってますね。この辺は単に「薩州家が分家とは言え本家も一目置く実力を持っていた」という理由付けがされていることが多いように思います。
>今川義忠・義元と武田義信
これは確かに縁起が悪いですね。
東国と言うより奥州になりますが、最上義光も足利義輝から偏諱をもらってますね。しかも後々直接拝謁もしているというのがすごい。しかし義光も晩年が悲惨でした…。