拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
5日前にあった参議院選挙なんだが
今回から選挙権が18才まで引き下げられ、内憂外患多発する中、国政を左右するたぶん大事な選挙のはず
なんだが
バングラデシュのテロとかいろんな事件があって、盛り上がらなかったですね…関西でも何故か東京都知事選の話題ばっかりでした。関係ないのに。
ついでに鹿児島県知事選もやってたんですね。木下ほうかさんが新知事なんですね!お目出度うございます!(違)
気を取り直して。今回のネタはこの話関連です。
『明史』「日本伝」を読んでいて、気になる人物を見つけた。
ただし、1回しか登場しない。
・以下、引用文は『倭国伝』(講談社学術文庫版)の書き下しを利用しております
・注記、下線はばんないによる物です
(1)数年を越えて:洪武19年より数年後
(2)その事:洪武帝の功臣・胡惟庸が謀反を企んだとされ、関係者が大量処刑されるという事件(胡惟庸の獄)があった
(3)賢:林賢、寧波の防衛責任者であった(「寧波衛の指揮」をしていたと『明史』にある) 先述の胡惟庸に荷担していたと決めつけられて処刑される
(4)族し:一族全員死刑に処せられる刑
胡惟庸の獄事件に荷担したとされ(現在の研究では、胡惟庸排斥と倭寇排斥を絡めた洪武帝の陰謀という説が有力らしい)、日本は来航自体を明に禁止されてしまうというとばっちり(?)を受けるが、この時にやってきた学生一人だけは明に上陸することが許されたらしい。
この「滕祐寿」、講談社学術文庫の補注では「藤原祐寿(ではないか)」と推測している。
…が、どうもこの人物が誰なのかまだ特定されていないようなのである(ネットで調べた限りだけどヾ(--;))
私も室町前期はさっぱりなので、全くあてもなく放置してたんだが
「もしかして」と突然ひらめいたのである。
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今回から選挙権が18才まで引き下げられ、内憂外患多発する中、国政を左右するたぶん大事な選挙のはず
なんだが
バングラデシュのテロとかいろんな事件があって、盛り上がらなかったですね…関西でも何故か東京都知事選の話題ばっかりでした。関係ないのに。
ついでに鹿児島県知事選もやってたんですね。木下ほうかさんが新知事なんですね!お目出度うございます!(違)
気を取り直して。今回のネタはこの話関連です。
『明史』「日本伝」を読んでいて、気になる人物を見つけた。
ただし、1回しか登場しない。
・以下、引用文は『倭国伝』(講談社学術文庫版)の書き下しを利用しております
・注記、下線はばんないによる物です
数年を越えて(注1)、その事(注2)始めて露れ、乃ち賢(注3)を族し(注4)、日本を怒ること特に甚し。意を決してこれを断ち、専ら防海を持って務めとなす。然れどもその時、王子の滕祐寿なる者来たりて国学(注5)に入る。帝猶お善く之を待す。<注記>
『明史』巻322,外国3「日本伝」
(講談社現代新書版、p.348)
(1)数年を越えて:洪武19年より数年後
(2)その事:洪武帝の功臣・胡惟庸が謀反を企んだとされ、関係者が大量処刑されるという事件(胡惟庸の獄)があった
(3)賢:林賢、寧波の防衛責任者であった(「寧波衛の指揮」をしていたと『明史』にある) 先述の胡惟庸に荷担していたと決めつけられて処刑される
(4)族し:一族全員死刑に処せられる刑
胡惟庸の獄事件に荷担したとされ(現在の研究では、胡惟庸排斥と倭寇排斥を絡めた洪武帝の陰謀という説が有力らしい)、日本は来航自体を明に禁止されてしまうというとばっちり(?)を受けるが、この時にやってきた学生一人だけは明に上陸することが許されたらしい。
この「滕祐寿」、講談社学術文庫の補注では「藤原祐寿(ではないか)」と推測している。
…が、どうもこの人物が誰なのかまだ特定されていないようなのである(ネットで調べた限りだけどヾ(--;))
私も室町前期はさっぱりなので、全くあてもなく放置してたんだが
「もしかして」と突然ひらめいたのである。
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最初は「王子」というのにしっかり引っかかって、公家の子息かと思い込んでしまい、全く見当も付かなくなってしまったのだが、
この「王子」というのは、あくまで明視点から見た「ええとこのボンボン」ヾ(^^;)なのであって、日本のそこそこの名家出身なら、別に公家じゃなくても良いんじゃないかと。と言うか、南北朝の大混乱期のまっただ中、京で混乱に巻き込まれている公家の子弟が明までたどり着けるのは難しいのではないかと。
特に、前回で触れたように九州の武将達が儲ける気満々で(^^;)明まで天皇の家臣の振りをして出向いているのですから、この「滕祐寿」だって武将の子弟の可能性が高いと考えられます。
で、九州の武将で「祐」と言えば
…
そう、伊東氏!
伊東氏は通字に「祐」を使っています(義祐然り、祐兵然り)。
更に、伊東氏は藤原南家末裔を自称しており、原姓は「藤原氏」になります。ますますアヤシイ(^^;)
南北朝時代の伊東氏で「滕祐寿」にあたる人物はいるのか?
と言う事で調べてみました。
「伊東氏大系図」※詳しくは拙本館HP参照
久しぶりにこの史料見るなあ。ではめくっていきましょう!
…
…
120ページ_| ̄|○
索引もないのにどうしろと…でも頑張る
…
2人発見。意外に少ない。取りあえず列挙してみる。
(1)兵部大輔祐寿:伊東祐景(伊東祐時(建長4年(1253年)6月17日68歳卒)の庶子)の8代孫
(2)二郎左門佐祐寿:初代飫肥藩主・伊東祐兵の次男 正保2年(1646年)46歳卒
このうち(2)は全く年代が合わないので除外。(1)は微妙かと。
あと、「伊東氏大系図」だが、時代の古い話は分からないことが多かったらしく(※島津氏に負けて、一時日向国から逃亡し史料を紛失したのが理由かと推察)、男子でも「祐 ○○○○」(「祐」の後が空欄で、横に字が書かれている)としか書かれていない物が多い。このその他大勢ヾ(--;)の「祐 」さん達の中にもしかしたら、「滕祐寿」が混じっている可能性もあるが…。
<追記>
この『明史』「日本伝」では島津のことはすっぱり抜けてても(^^;)さすがに豊臣秀吉のことは書いてました。
が、その内容がかなり微妙なんですな。
今回拙ブログで紹介しよう…と思ったら、既に他のサイトで詳細に紹介されていたので_(。_゜)/、ご興味のある方はどうぞ
『明史』豊臣秀吉の条
戦国いい話悪い話
確かにこれ読んだ後で、邪馬台国論争を見るとかなりばかばかしくなる…あれこんな時間に宅急便が
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