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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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※18歳以下でも大丈夫な庄内の乱を知りたいという方はこちらをクリックして下さい

前回同様長い話ですので、当方による超訳(元の文は読み下し文)をしております。
また、読みやすいよう適宜改行を入れています。


内村半平ならびに武彦左衛門のこと

(内村半平編についてはこちら

ところで、武彦左衛門尉は、平田民部左衛門尉と兄弟の契約を結んでおり、その交わりは深く、この戦においても、戦場にも同じ所に連れ添いあい、影の如くに従っていた。が、平田が怪我をしたとのことであわてて陣屋の中に駆け込んで看病していたところ、平田は苦しそうに息をし、武に向かって「このように深手を負ってしまっては、もう助からないだろう。だから今、無理なことを頼みたいのだが、どうか聞いてくれるか」と言った。武はそれを聞いて「愚かなことをおっしゃいますな、同じところで死のうと思っておりましたのに、何か思い残すことがあれば、残らずおっしゃって下さい」と返した。それを聞いて平田が喜んで言うには「私は、義久公に殉死の約束をしている。が、今、ここで空しくなってしまっては、ご逝去の時にお供する約束はかなえることが出来ず、義久公に嘘を付いたのと同じである。願わくは、義久公が亡くなられるときには私の名代であると名乗ってお供してはくれないか。しかしこれは大変なことなので、お願いするのはあまりにも心許ないことであったが、あなたしか頼む人はいない。どうかこの望みを叶えて下さらないか。」と話した。武は「お安い御用でございますとも。そのことは私に任せて下さい、少しも心配には及びません。」と了承したところ、平田は「もうこの世に思い残すことはない、このごろ何と忝ないことか」と大変喜んだ。武が平田の手を取った時、平田は亡くなってしまった。武も涙に暮れて嘆いていたが、力及ばなかった。
平田はたびたび軍功をたて、大剛の勇士であったが、この度の戦いでは生きて再びかえることが出来なかった。宿所を出るとき、武は形見として一首詠み、硯の裏に書き付けた。
”立皈り又見るべきにあらざれば 我身ながらも形見成りけり”
過ぎること慶長16年(1611年)2月20日(誤字で正しくは1月21日)、義久公ご逝去の時、武も平田との最期の約束を守り義久のお供をし、殉死15人の内の1人となった。その時の辞世の歌は
”ながらへてかかる浮世に逢坂の 水より清き我が心かな”
時に、「我は平田民部左衛門の名代、武彦左衛門成るぞ」と名乗り殉死したという。誠に武士の一言、志は天晴れ、勇士の鏡と言うべきである。
 
 
武士の恋愛は命がけ。というか命捨ててるし。
それにしても戦に行くのも一緒、いつも一緒、おててつないで仲良し(暴言)。こんな暑苦しい状態でヾ(^^;)島津家の戦はどーなってんの。というかこんな連中に負けた大友とか伊東とか龍造寺とか、あと半島の(以下自粛)

しかし、平田民部左衛門尉と島津義久の関係ってよくわからない。「本藩人物誌」に名前も記載されている(平田民部左衛門宗正)けど、平田家の本家からはかなり離れた分家のようで、そんな身分の高い武将でもなさそうだ。まあ『殉死の構造 (講談社学術文庫)』によると、殉死をするのはむしろ身分の低い武将が大半のようだが。

余談

島津忠豊こと島津豊久の寵愛の小姓が云々という記述もあったような気がして必死になってヾ(--;)「庄内陣記」を読んだのですが、見つけられませんでした_| ̄|○
「関原御合戦記」にもなかったから、まさか「征韓録」だろうか…。
 


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