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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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比志島義基は「本藩人物誌」「比志島系図」などによると比志島義弘の息子とされている。



五味克夫氏の指摘によると、戦死した比志島義弘の養子に入った人物で、実はあの伊集院忠棟の弟なのだという(「『日向記』と『旧記雑録』、真幸院領主北原氏のその後」五味克夫『宮崎県史叢書』「日向記」しおり 平成11/3 第3回」など)。

「庄内陣記」をみると、比志島義基らしい人物が何回も登場するが、書き方が一定していないのである。

其着到を記に、先一族には(中略)比志島式部大輔義智入道清庵幸侃差次の弟高城の城主都城に住嫡子左馬介義興 公に従・同二男彦太郎、同休次郎(以下略)
(忠実(ママ)大川原山遊猟付凶音庄内下着家臣着到之事)

(前略)爰に北原治部左衛門尉兼茂と云は、忠真叔父比志島義基二男にて従弟の続きにて(中略)兄左馬介義興と議して、夜中に国分冨隈之御城に馳参じ、比志島紀伊守国貞に倚て、忠真が謀反之企有る由、委一に言上に及ける。
(庄内籠城用意の事)

高城には比志島式部少輔義知入道清庵・同彦太郎・同久次郎(以下略)
(忠真籠城之事付拾二砦構之事)
 
実は、比志島義基(義智)は伊集院忠棟の最も身近な縁者であり、又庄内の乱に加勢したにもかかわらず、全く処罰の対象にならなかった。上記引用にあるように、息子二人が島津本宗家側に付いたのが主な理由と思われる。
そのため、後世史料を書くときに比志島義基に関して伊集院忠棟の縁者であることを分からせないための工作が行われ、「本藩人物誌」「比志島系図」にはその辺の記述がばっさり抜け落ちて、いかにも比志島義弘の実子のような書き方になったのではないかと思われる。「庄内陣記」で表記が一定していないのもこれが理由であろう。

 


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おまけ

比志島さんには関係ないけど。

庄内之籠城(慶長4年)六月より十一月に至半年ケ間、已に山田・恒吉両城ならで落ちず、猶十ケ所の城々要害けんこにして楯籠り、防戦に日を送り、勢ひ強大にして、斯くの如くば何果つべき軍とも見えず、味方大軍なれば計以て急に押寄、攻破ば勝利勿論也といへども、士卒多挽んこと憚もたし玉ふ。龍伯公長々の軍旅、士民の苦、国家の困窮をなげき思召て、何卒講和をすすめ、城を下して時を待つに如かずと。忠恒公に御異見有りといへども、御承引無し。
(忠実(ママ)和議を進められ付評議之事)

ふーん。
更に続きに
山口直友忠実(ママ)を勧めて、和平の調儀をなすに、島津家は父の仇、共に天を頂かざるの讎、運を天に任せ、雌雄を決すべき、と返報に載たり。今更兎角申入可し、只速に攻破、忠実(ママ)が首を見る可しと憤り玉う。これに依って、龍伯公御遠慮を巡らされ、小敵とても軽侮し難し、地の利を得た敵なれば、楚忽に掛らば、却て敵の為に破らる可し。斯ては味方の弱みに成り、弥以墓行ず(いよいよもってはかゆかず)しと、かれこれ御思量加へられ、鎌田出雲守政親、比志島紀伊守国貞、北郷作左衛門(三久)此三人に御談合あり。忠恒公若大将におわせば、麁忽(そこつ)之儀これ有ること無きようにと、兼て仰を蒙り、庄内在陣して、合戦の行(てだて)謀計の趣を儀されける。

…忠恒信用されてないなm9(^Д^)
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