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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前の話はこちら


前の話を読んでもらえると分かるように、私は巷説の
「島津豊久が伯父の義弘をしたって、その加勢のために関ヶ原にはせ参じた」
…というのを疑っているのですが

「旧記雑録後編」3に、その辺の事情の参考になりそうな史料を見つけました。
3-1132「義弘公御譜中 正文在新納仲左衛門忠雄」
3-1133「御文庫廿三番箱十四巻中 義弘公御案文
この2文書はほぼ同文です。後に載せられた御文庫にあった方が元々の御案文の本体と考えられますので、そちらの方を見てみます。
一 伏見御城本丸・西丸之間ニ御番可仕之由、及両度ニ雖申理候、無御納得候事、
一 秀頼様 御為、可然儀ニおひてハ各御相談次第と安国寺(注1)へ申候事、
一 安国寺御留之事、
一 伏見・大坂之しまり之事、
一 増右(注2)より参候書状、小摂(注3)へ遣申候事、
一 如右御城内へ不致在番候者、大坂へ罷下、 秀頼様御側へ可致堪忍存候事、
一 同名中務太夫、爰元へ召留候事、
一 御奉行衆之内御一人、伏見へ御在番候事、
七月十二日之夜半、大坂へ旅庵被差下御条書之案文也、

注1:おそらく安国寺恵瓊のこと
注2:増田長盛のこと
注3:小西行長のこと
いろいろと興味深い内容の案文だが、今回注目する点は太字で強調したが「同名中務太夫、爰元へ召留」という箇所だろう。「同名中務太夫」とは島津中務大輔、つまり島津豊久を指すと見て間違いないのではないだろうか。この案文が事実を書いているとすれば、島津豊久は自分の意思で関ヶ原に行ったのではなく、伯父の要請で畿内にとどめ置かれたことになる。

ちなみにこの前年まで豊久は庄内の乱に参加するため帰郷していた。その後、いつどのような事情で上洛することになったのか、現在私が持っている史料では関連する記述を見つけられず不明である。


ちなみに、3-1132と3-1133の違いなのだが

(1)3-1132では項目6(如右御城内へ不致在番候者~)が項目1の後に挿入されている
(2)3-1132ではタイトルに
 覚
幸侃
…という謎の文字が入っているのである。文章の内容から考えて、どう見ても伊集院幸侃死後~関ヶ原合戦前夜にかかれた案文のはずなのだが…何故に「幸侃」?

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