拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
島津義久が小根占を訪問した(三首目・四首目参照)慶長15年、義久にとって重要な家臣の一人が義久に先立ちます。
山田理安。…といってもピンと来ない人が多いでしょうが、山田有信といったら「ああ、あの…」と思い出される方が多いのではないでしょうか。耳川の戦い(高城川の戦い)で少ない兵(500人程度と言われている)と供に籠城し、勝利に貢献大であったと言われる武将です。
晩年、重病となった義久の回復を祈願して絶食する物の、それが結果として老齢の有信の寿命を縮めることとなり、慶長15年6月14日に亡くなりました。享年65歳。
有信の死は2首目でのネタとなった島津忠長の死と共に義久にとって精神的ダメージを与える事件であったと思われます。
この時義久は居城・国分城の門前に出て有信の葬列を見送ったと『本藩人物誌』「山田有信」等に書かれています。その時の挽歌
ちなみに上には続きがあります。
山田理安。…といってもピンと来ない人が多いでしょうが、山田有信といったら「ああ、あの…」と思い出される方が多いのではないでしょうか。耳川の戦い(高城川の戦い)で少ない兵(500人程度と言われている)と供に籠城し、勝利に貢献大であったと言われる武将です。
晩年、重病となった義久の回復を祈願して絶食する物の、それが結果として老齢の有信の寿命を縮めることとなり、慶長15年6月14日に亡くなりました。享年65歳。
有信の死は2首目でのネタとなった島津忠長の死と共に義久にとって精神的ダメージを与える事件であったと思われます。
この時義久は居城・国分城の門前に出て有信の葬列を見送ったと『本藩人物誌』「山田有信」等に書かれています。その時の挽歌
引用元の「盛香集」については鹿児島大学図書館のこのページに簡単な説明があります。『盛香集』
夫理安慶哲居士ハ山田越前ニて、猛キ心を専として疵をこふむり、名誉ある事度々也、しかるに忠節のものなれハ、内外をいはす召仕しニ、予五年の間心地例ならずおこたる事なきを嘆き、身の替りになんとゝいひけるか、寔成哉、夏の初つかたより病床ニふして、水無月十四日身まかりぬると聞て、一首をつらねて手向とするものになむ、
はちす葉の置こほしたる露の玉
終りや君かためにすてけん
六月廿九奠 法印龍伯
(「薩藩旧記雑録」後編4-700)
ちなみに上には続きがあります。
…でも、忠元が死んだときには義久挽歌を作るのを忘れた可能性が(2首目参照)…忠元かわいそうっす(´・ω・`)是を聞て新納忠元、
うらやましきへぬる玉の終りまて
いともかしこき君のことの葉
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