拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
天正18年と云えば、すでに島津氏は豊臣秀吉の前に降伏し、秀吉からこれでもかと命令される貢ぎ物の強奪賦役や軍役に四苦八苦しており
…まあ前置きが長くなりましたが、要は落ち目だったわけですが(涙)
そんな島津さんになんと「あなたの偏諱を下さいな」といってきた変人がいたらしい。
しかし、何でこんな時期に落ち目の大名から偏諱もらおうとしたのか…松浦さんの考えていることはわからん…
拙ブログ関連ネタ こちら
…まあ前置きが長くなりましたが、要は落ち目だったわけですが(涙)
そんな島津さんになんと「あなたの偏諱を下さいな」といってきた変人がいたらしい。
「義久公御譜中」
(前略)
同月(※天正18年12月)十三日、平戸松浦肥前守依所望許諱字、称其謝礼得宝刀於我、我亦進所帯之刀於肥州者也、
(後略)
(「薩藩旧記雑録」後編2-709)
島津義久の偏諱をもらった、この平戸肥前守とは、ずばり松浦久信だろう。天正拾八年 自三月至十二月
御日記
(前略) (本マゝ)
一(天正十八年十二月)十三日、此日、平戸肥州御字被申請刀、 一十四日 進上、自 御前も御腰物被給、
(後略)
(「薩藩旧記雑録」後編2-715)
しかし、何でこんな時期に落ち目の大名から偏諱もらおうとしたのか…松浦さんの考えていることはわからん…
拙ブログ関連ネタ こちら
ちなみに同時代に松浦久信さんはもう一人いる(な、なんだってー)
もう一人の松浦久信さんはこちらです
「島津家久」の悲劇再びヾ(--;)
もっとも領地も官名も違うので間違われることはなかったと思いますが(たぶん)
もう一人の松浦久信さんはこちらです
「島津家久」の悲劇再びヾ(--;)
もっとも領地も官名も違うので間違われることはなかったと思いますが(たぶん)
PR
Comment
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。