拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
「日新菩薩記」(戦国史料叢書〈第2期 第6〉島津史料集 (1966年)所収)「不孝禁制及び常行之事」より
(((((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
この前にも
「父親とケンカした中間を処刑しただけじゃなく、その死体を掘り起こして額に”不孝”の焼き印を押して道にさらし者にした」
とか
「親と論争した息子の領地をボッシュートした話」
とか、親とケンカした子供に対してはひじょーに厳しい日新斎様なのでした。
田布施の垂の腋に、長井弥五郎と云ひし人あり。対論し悪口最中に、聖君(=島津忠良)御出行、此の雑言を聞き給ふて路中に滞在し、宮原六郎と召す。諾して頭を地に低る(たる)。何事ぞ聞いて参れ。聞いて欽んで(つつしんで)母と口論を言上す。君双眼を閉ぢ、暫く思惟し、誅滅と宣ふ。六郎庭に立ちて、弥五々々と喚ぶ。声に応じて出で向ふ。一打に誅して却け来り(しりぞけきたり)、御前に跪き、是の如しと奏し奉る。聖君顔を解かず、即ち歩を運せ給ふ。
(((((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
この前にも
「父親とケンカした中間を処刑しただけじゃなく、その死体を掘り起こして額に”不孝”の焼き印を押して道にさらし者にした」
とか
「親と論争した息子の領地をボッシュートした話」
とか、親とケンカした子供に対してはひじょーに厳しい日新斎様なのでした。
PR
Comment
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。