忍者ブログ
拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

なかなか終われない(涙)九州御動座編です
今回もまだ秀吉は九州に到達できそうにありませんヾ(--;)


 追って申し候。敗け軍(まけいくさ)候時は
 少しも早く追い付き候程、
 相たまらざる物に候間、
 足次第追い付き討ち果たすべく候。
 肥後口か日向口へか
 敗け北ぐ(まけにぐ)べく候間、薩摩へ北げ
 入らざる已前に追い付き、首を刎ぬべく候。
 聊かも油断あるべからず候。
 法度もかようの時は
 入らざる事に候。以上。
去んぬる十五日の両通并びに
内空閑(注1)使者口上の趣、周防呼坂(注2)に至り
到来、委細聞こし召し
届けられ候。
一、豊後府内にこれある
  島津兵庫頭(注3)・伊集院(注4)
  を始め、薩州の奴原悉く
  敗軍せしむるの由に候。定めて
  路次にて討ち果たすべしと
  思し召し候。万一北げ延び候わば、
  薩州へ付け入り仕り
  討ち果たすべく候。若したまる所
  これあるにおいては、取り籠め逃れざる
  様に仕るべく候事。
一、先手の者共、付け入りの儀
  無案内たるべく候間、
  其の意を得、軍法も入らざる
  事に候間、北げざる様、追いつめ
  討ち果たすべき事、肝要候。
一、時日を移さず其の面に至り
  御着座成さるべく候間、其の意を
  えべく候なり。
 三月二十日       (朱印)
   黒田勘解由とのへ
<84豊臣秀吉朱印状(6巻5号)>
(注記)
1:内空閑→肥後国の国人・内空閑(うちこが)氏。このころ内空閑鎮房(先代・鎮資の弟)と鎮照(鎮資の息子)で対立しており、使者を派遣したのが鎮房か鎮照かはよく分からないとのこと(p.201解説)
2:周防呼坂→現在の山口県周南市呼坂
3:島津兵庫頭→ご存じ島津義弘
4:伊集院→伊集院忠棟
天正15年3月19日発の秀吉朱印状です。前回書状から見て更に西に順調に移動していることが分かります。
それにしても今回も「薩州の奴原悉く敗軍せしむる」とか「路次にて討ち果たすべし」とか「万一北げ延び候わば、薩州へ付け入り仕り討ち果たすべく候」とか「法度もかようの時は入らざる事に候」などなど物騒な発言は更にエスカレート。これらの文言からは「降伏してきたら助ける」という気配は全く感じられません。
さてこの文書の中で特に名前を明記して「こいつ等は殺してしまえ」と言われた島津義弘と伊集院忠棟。山本博文説に依れば、この後一番秀吉政権寄りだったと言われるのがこの2人なんですから皮肉な物です…。
去んぬる十六日の書状、今日廿一日周防冨田
市(注1)において到来、披見候。
一、敵退かざる様に山取りせらるべき由、再三申し使わし候処、
 早五里六里まで相陣を構え候に依って、
 敵敗け軍致し候、付け入りに仕り、豊後の内にて
 大将分討ち留めざる事、先の衆ぬるき故と
 思し召され候事。
一、黒田勘解由、蜂須賀阿波守(注2)両人は、日比(ひごろ)
 秀吉付け入りの段存じ候に、何としたる子細に、
 中納言(注3)所へ、日向の儀節所(注4)にて候間、打ち返し
 秋月(注5)を取り巻くべきかと申し候事、分別あたわず候事。
一、敵敗け北げ(まけにげ)いたす者にひっつき日向国へ
 乱入せしめ候儀、節所とやらんは入るまじく候、
 敵の逃げちり候道がよき案内者にて候事。
一、豊後表にて節所を構え、先手の者と
 一合戦いたさざる薩摩のやつばらが、
 にげちり国へ罷り越し候者が、何とてこわき
 儀あるべく候や。土民百姓よりもにげ物は
 入らざる物にて候。太刀もかたなも入らざる物にて候事。
一、節所と申は、退き候時入り候物にて候。薩摩の
 嶋津をしころばかし候わでは、馬をおさめ
 させられまじく候間、節所は入るまじき事。
一、敵敗軍せず、日向の国にこれあり、てっぽうを
 かまえ、人数をそなえこえあるおりこそ、又
 しより陣取りにておしこむべき儀も然るべく候に、
 敗け軍の敵を追い打ち、付け入りに致し、殊に大
 軍が乱入せしめ候に、あぶなき儀はある間敷く候や、
 関白殿御さげすみは少しも違い申すまじく候。
 心やすく思われ候いて、日向へ乱入然るべく候事。
(7ヶ条+後文省略)
 三月廿一日        (朱印)
       黒田勘解由とのへ
       蜂須賀阿波守とのへ
<85豊臣秀吉朱印状(6巻6号)>

(注記)
1:周防冨田市→現在の山口県周南市
2:蜂須賀阿波守→蜂須賀家政
3:中納言→豊臣秀長
4:節所→峠や山道などの要害の場所、又難所を指す(「黒田家文書」第1巻解説p.85)
5:秋月→福岡県朝倉市。秋月種実・種長親子が籠城中の古処山城がある。
日付は天正15年3月21日、秀吉が九州する上陸前に島津氏は早々と撤退してしまったようです。
それに対して秀吉は超ご立腹だったようすがこの書状から伺えます。
「敵退かざる様に山取りせらるべき由、再三申し使わし候処、早五里六里まで相陣を構え候に依って、敵敗け軍致し候、付け入りに仕り、豊後の内にて大将分討ち留めざる事、先の衆ぬるき故と思し召され候(敵が退かないように山に陣取りしておけと再三言っといたのに、早くから五里六里先まで対陣を構えて敵が負けたというのに、逃げた後を追い込み豊後国内で大将クラスを討ち取れなかったのは、先手が手ぬるいからだと思われておられるぞ)」
「黒田勘解由、蜂須賀阿波守両人は、日比(ひごろ)秀吉付け入りの段存じ候に、何としたる子細(黒田官兵衛と蜂須賀家政両人は日ごろから秀吉の追い込み作戦のことを知っているのに、何というていたらくであるか)」
…と言う具合です。でも、その後はいつもの強気の秀吉君ヾ(^^;)でして、
「豊後表にて節所を構え、先手の者と一合戦いたさざる薩摩のやつばらが、にげちり国へ罷り越し候者が、何とてこわき儀あるべく候や(豊後国で難所を作り、こっちの先手と戦闘もしなかった薩摩の連中が、逃げ散って国に帰っている状態のどこが怖い物か)」
「薩摩の嶋津をしころばかし候(薩摩の嶋津を転ぶように倒してやる)」
「関白殿御さげすみは少しも違い申すまじく候。心やすく思われ候いて、日向へ乱入然るべく候(関白殿の計略はちっとも間違ってないので、心やすく思って日向国に押し入るべきである)」
と言う具合です。
ところで「敵の逃げちり候道がよき案内者」ともありますが、どうも九州の地理に詳しい人がいなかったんでしょうか?>秀吉軍 たしか伊東祐兵は九州での道案内の功で旧領を回復したとかどこかで見た記憶があるんだが。



延々と引きずった九州御動座もここまで。
この後も九州御動座関係の文書があったような気もするんですが、目に留まるような内容がなかったのかコピー取ってないようです(滝汗)

次回は直接島津に関係有るような無いような文書の紹介の予定です。


拍手[0回]

PR
Comment
name 
title 
color 
mail 
URL
comment 
pass    Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
最新コメント
[09/22 書き人知らず]
[09/22 大嶋昌治]
[06/28 Albertbaw]
[05/19 春山]
[05/06 桐野作人]
最新トラックバック
ブログ内検索
プロフィール
HN:
ばんない
性別:
非公開
自己紹介:
初めての方はこちらの説明をお読み下さい。リンク・引用の注意もあります。

プロフ詳細はこの辺とかこの辺とか
カウンター
バーコード
アクセス解析
P R
Template by Crow's nest 忍者ブログ [PR]