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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前回の続きになります。
では早速

(頭注)
(1)『看羊録』はいろいろな本に所収されていますが、今回使うのは東洋文庫版になります。一番図書館に置いてあるのもこれかと。
(2)[ ]→翻訳を担当した朴鐘鳴氏による補注
(3)<>→著者の姜沆自身による補注
己亥年(注1)正月12日、家康は、賊魁[秀吉]の遺命だと称して、秀頼を大坂に送り込ませ、自分は伏見に留まった。何か変事が起こりそうで、[人々は]しょっちゅうびくびくし、店舗も半分は店を閉じた。
 閏三月<倭の暦に閏三月がある。それで、閏三月[と書いておいたの]である>(注2)9日になって、清正らが武装兵を率いて伏見に上り、治部を攻めようとした。[毛利]輝元の参謀僧、安国寺[恵瓊]は、輝元に説いて言った。
「関白や摂政は、ただ一人のみであります。人臣で富んでいる者も、公を踰えることはありません。戦ってどうしようというのですか」と。
 輝元は、心の内に、これをもっともだと思い、遂に安国寺をやって家康を説得させたところ、家康もこれに同意した。
 長束大蔵[頭正家]は、治部の婚家であったので(注3)、やはり治部を説得し、家康のもとへ往かせて謝罪させた。輝元らが、遂に家康を押して盟主とし、伏見城に入居させた。
 治部は、首謀者であったので、自分の子を家康の人質にした(注4)。家康は治部をその領地に却けた。[福原]右馬助[長堯]は、[事の]張本人であったので、その土地を奪って、[早川]主馬頭[長政]等に返した。右馬助は、頭髪を剃って僧となり、名を緑雲と更え、山寺を建ててそこに住んだ。
 おおよそ、その気象が、[中国の昔の]春秋戦国の世にそっくりである。
<治部は礼部であり、少輔は員外郎である(注5)。>
清正なる者の性質は、もともとよこしまで、激しい。それで、家康に治部を攻めるよう勧め、それによって乱を起こそうとしたのである。家康と治部とが憾みを釈くに及ぶや、結局その禍心を逞しくすることができず、恐ろしい言辞をあれこれと吐きちらして、遂に家康に叛き、前田肥前守[利長]・備前中納言[宇喜多秀家]・[伊達]中将政宗・長岡越中守(細川忠興)・黒田甲斐守[長政]・浅野弾正父子(浅野長政・幸長)らと刺血(血判)同盟を結び、共に[力を合わせて]家康を討ち滅ぼし、その土地を分けようと約束した。
<その謀議に参加しなかったのは、ただ[毛利]輝元、[小早川]金吾[秀秋]らの5,6人だけであった。盟約はなったものの、「地醜く、徳斉し」(注6)といったような者ばかりで、統率する者がいないものだから、[前田]肥前守[利長]・[加藤]清正ら、大半が自分の領地に帰ってしまった。>
「賊中聞見録」p.170-171
(注1)己亥年→前回も書いたが慶長4年(1599年)
(注2)閏三月→日本は宣明暦(唐時代作成)を使っており、この時代にはずれが生じたためうるう月が存在した。が、朝鮮では大統暦(明時代作成)を使っていたのでうるう月という物はなかった。そのため、姜沆はわざわざ注記を入れて説明したのである。
(注3)長束正家は治部の婚家であった→長束正家は石田三成(治部少輔)と縁戚ではない。というか、今回長束正家の婚姻関係を調べて、初めて正家の正室があの本多忠勝の妹だったと言う事を知り驚き。
(注4)治部は~自分の子を家康の人質とした→関ヶ原合戦後僧侶となった長男・石田重家のことか。
(注5)礼部、員外郎→礼部は明時代の官僚制度の役所の一つ。詳しくはこちら(wikipedia)。ただ治部省の役務内容は礼部じゃなくて戸部に近いような気がする。員外郎は日本の律令制度では判官相当の役職。
(注6)「地醜く、徳斉し」→『孟子』公孫丑章句下にある文で、「領土の大きさも同じくらいで君主の徳も同じくらい」と言う意味があるという(p.173,訳者注)「どんぐりのせいくらべ」。

七将による石田三成襲撃事件の下り。何か流れが分かりにくいというか、通説とかなり違うというか。
姜沆はまともな情報を手に入れることができなかったんでしょうか。それともこの時は事態がかなり流動的だったのか。現在の通説では石田三成を庇ったのは宇喜多秀家や佐竹義宣(※ただし佐竹に関しては一次史料で確認できないらしい)と言うことですが、ここでは三成を庇ったのは毛利輝元+安国寺恵瓊という事になっています。
前回で紹介した文もそうでしたが、後半で「家康を襲撃する」と言われた武将グループ、関ヶ原の合戦ではほぼ全員が東軍(家康側)についてますね(苦笑)
それにしても、「よこしま」だとか相変わらず無茶苦茶言われている加藤清正。
己亥年9月9日、家康が大阪で秀頼に拝謁した。肥前[前田利長]の一党が、予じめこの事を知り、道ぞいに伏兵をしのばせておいて、これをむかえうとうとした。土肩(方)勘兵[衛雄久](注1)なる者が、自ら家康を刺そうと、請うた。石田治部は、すでに清正等と仲違いをしており、また、家康に媚びようという心積もりもあって、ひそかに書面で[このことを]家康に知らせた。家康はこの事を[浅野]弾正[長政]に問いただしたが、弾正は、きっぱりと、これを否認した。
<はじめ、秀吉の養子であった関白[豊臣秀次]が秀吉に殺された時、弾正は関白の党類として逮捕され、危うく死にかけたところを、家康の力添えのおかげで助かったことがあった。それで、家康は、弾正を腹心として待遇し、事が起こるに及ぶや、真っ先に弾正に問うたのであるが、弾正は、すでに[前田]肥前との盟約があったので、隠して話さなかったのである。>
次に、[増田右]衛門正(尉)[長盛]を問い正したところ
「私もやはりそのことを聞きました」
と答えた。<その他のことは肥前守の条(注2)にある。>家康は、大いに起こり、弾正を自決させようとした。
弾正は、
「秀頼[公]が年若い主君であれ、秀頼[公]が私に死を給うというのであれば、私はその命令に服従しよう。[しかし、]内府[徳川家康]が大班(注3)であっても、内府が私に死を給うと言うことには従えない。」
と言った。結局、家康は、弾正を追放し、その食邑の甲斐州に帰らせた。
 家康はまた、秀吉の遺命をたてに、秀頼の母[淀殿]を室にしようとした。秀頼の母は、既に大野修理[亮治長]と通じて妊娠していたので、拒絶して従わなかった。家康は、ますます怒り、修理を執えて関東に流し、さらに途中で死を与えた。土肩(方)勘兵[衛]も執え、やはり関東に流した。
 [家康は、]関東の諸将に武装兵を率いさせて肥前が上って来る路を守らせ、自分自身は大阪にいて不安と疑惑を鎮めた。
<その長子三河守[徳川信康]と少子壱岐守[頼房]に伏見城中の留守をまかせ、中子江戸中納言[秀忠]には関東の根本を守らせた(注4)。>
[そして家康は、]郡[の自領]に帰っている諸倭将を急いで召集し、その去就を観た。家康に附こうとする者は媚びへつらおうとし、家康にさからう者は自ら[事態を]明らかにしようとして、一時に道を進んできた。ただ、清正だけは、命令を聞いても[自領に]そのまま留まり、三ヶ月が過ぎてから上京してきた。越中守[細川忠興]は、丹後の私城(注5)を修繕し、
「ここを守れば充分である。何をわざわざ内府のためを計る必要があろうか」
と言った。
 この時にこそ、[毛利]輝元が、もし一歩でも動いていたならば、勝敗は立ちどころに決していたであろう。しかし、二酋[の家康と輝元]がすでに和睦していたので、諸倭は殊更な動きを見せなかった。
 そして、[家康は、]備前中納言[宇喜多秀家]と筑前中納言[小早川秀秋]とを、伏見に駐留させようとしたが、備前は拒否し、
「[亡くなられた]太閤には、肥前守と私の二人で共に秀頼[公]を戴き大阪を守れ、と遺言された。そのお声がまだ耳に残っております。どうしても命令は聞けませぬ」
といった。[しかし、]家康が[彼の主張を]堅く拒んで聞かなかったので、秀家はやむを得ず伏見に移駐した。
<はじめ秀吉は、諸倭に屋敷を王京・伏見・大阪の三カ所に与え、[彼ら]自ら往来するようにさせ、そこに住まわせた。家康が大坂に居るようになるに及んで、諸倭は一時に[自分の領地に]下って去ってしまったので、伏見は空っぽになってしまった。>
「賊中聞見録」p.172-173
(注1)土肩勘兵衛雄久→土方雄久 関ヶ原の合戦時は東軍(本戦には参加せず)。
(注2)肥前守の条→この記事参照
(注3)大班→大大名のこと
(注4)長子三河守と少子壱岐守→この姜沆の認識違いについての指摘は拙ブログのこの記事を参照
(注5)丹後の私城→恐らく宮津城のことか

関ヶ原の合戦前に徳川家康派とみられていた浅野長政が蟄居させられたり、大野治長・土方雄久が関東に流罪になるという奇怪な事件が相次ぎますが、それに関する記述です。
ここもまた通説とはかなり違う記述が多いです。
この文で注目されるのは、毛利輝元に関する記述(この時にこそ、[毛利]輝元が、もし一歩でも動いていたならば~)でしょう。「輝元は鈍長な性格」というイメージがありますが、同時代人もそうだったことがうかがえます。


今回はここまで。
後もう一回だけ続きます。

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