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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前回予告したとおり、朝鮮出兵で不幸にして捕虜になった朝鮮王朝の官僚・姜沆による上申書+回想録「看羊録」で記述された、関ヶ原合戦勃発直前の、日本国内の不穏な空気が感じられる文をピックアップ。
なお、姜沆は友人の「舜首座」こと藤原惺窩や慶安(切支丹の医者らしい)が姜沆の捕縛者・藤堂高虎を説得したことで釈放され、1600年5月19日に帰国しています。つまり、1600年9月15日に勃発した関ヶ原の合戦はじかで見聞きしてない…遠慮せずにもうちょっと日本にいれば良かったのに~(をい)

ではまいる。
(頭注)
(1)『看羊録』はいろいろな本に所収されていますが、今回使うのは東洋文庫版になります。一番図書館に置いてあるのもこれかと。
(2)[ ]→翻訳を担当した朴鐘鳴氏による補注
(3)<>→著者の姜沆自身による補注
賊魁(注1)には子がなかったので、妹の子(注2)を自分の養子にした。賊魁が、大閤と自称するに及んで、その養子を関白にし、伊勢・尾張などの州を分って領土としてやった(注3)。
壬辰年(注4)の冬になって、秀吉の愛妾(注5)が秀頼という男子を産んだ。<ある者の言うには、大野修理大夫[治長]なる者が、秀吉の寵を得て、つね日ごろから寝室に出入りし、秀吉の愛妾と密かに通じて生んだのだ、と>秀頼が生まれてからというもの、関白は、自然と心に疑いや懼れが生じ、暗に翻意を抱いた。石田治部[少輔三成]は、彼に従いながら、これを陥れた。秀吉は、関白を自決させようとしたが、関白は紀伊州高野山に逃れ、剃髪して僧となった。秀吉は、直ちに、その所在[地の高野山]で、またこれに死を賜った。
<倭の法では、死罪にあたる者でも、領土を捨てて僧侶になれば、通例として不問に付すのであるが、秀吉だけは、関白を殺してやっと満足したという。>
関白の屋敷も包囲し、その部下を一人残らず殺してしまった。その屋敷は没収して、加賀大納言(注6)に与えた。
[こうして]内憂は解決したものの、わが国侵略の軍[事行動に]は何ら成果がなかった。家康等は、再挙[侵略するの]は失計である、と言い、石田治部は、つねづね
「66州で充分である。どうしてわざわざ、異国で切羽詰まった兵を用いなくてはならないのか」
と言っていた。ただ、[加藤]清正だけは、再挙するのがよい、と主張した
「賊中聞見録」p.160
(注1)賊魁→以前から何回も出て来ているが、豊臣秀吉のことである
(注2)妹の子→豊臣秀次。ただし秀次の母は秀吉の姉(とも)なので、「姉の子」というのが正しい。
(注3)伊勢・尾張などの~→秀次が伊勢・尾張を領地としたのは小田原の役の後らしい(wikipediaデータなので余り当てにしないようにヾ(--;))
(注4)壬辰年→秀頼が生まれた文禄3年(1593年)は癸巳なので1年前と間違えている
(注5)秀吉の愛妾→ご存じ淀殿のことである
(注6)加賀大納言→前田利家 ところで秀次の居所・聚楽第は徹底的に破却されたのだが、その跡地はその後どうなってたんでしょうか。姜沆情報のように前田利家の土地になったのかしら?詳しい方のご意見お待ちしております<(_ _)>

秀次一族殺害事件に関する下り。「秀頼は実は秀吉の子じゃない」説とか、石田三成が秀次失脚の黒幕だったとか、なかなか興味深い話が続出します。
また後半では朝鮮出兵に関する諸大名の意見が書かれているのですが、徳川家康、石田三成等が反対派だったのに対し、加藤清正がイケイケゴーゴーというのが通説通りで、いかにも何とも(^^;)
[秀吉は]戊戌年(注1)3月晦日から病気にかかり、自分でもきっと死ぬだろうと悟って、諸将を召し寄せて後事を託した。家康には、秀頼の母[淀殿]を室として政治を後見し、[秀頼の]成人を待って後政権を返すようにさせた。加賀大納言[前田利家]の子肥前守[前田利長]には、秀頼の乳父(注2)となって、備前中納言[宇喜多]秀家と共に、終始秀頼を奉じて大坂にいるようにさせた。
<また、[秀吉は、]他人の娘を大勢養って自分の娘とし、少しでも権力のある者はみな、[養女と]婚礼させることで籠絡した。また、金銀や土地を重賞として与え、後々までその恩を[売って]留めておくことによって、後々の野望を[抱くのを]断った。家康の子、江戸中納言[徳川秀忠]の娘[千姫]を秀頼の妻にした。
大坂は、西京で、摂津州にあり、伏見は、東京で、山城州にある>
大坂の形勢は、伏見に比べて、より優れている。それで、家康には東の諸将を率いて大坂に居らせ、そうすることで、西の諸将の謀反を計ろうとする者を制御させ、輝元には、西の諸将を率いて伏見に居らせ、そうすることで、東の諸将の事を起こそうとする者に備えさせた。そして、命じて、大坂の諸店舗を取り払わせ、大々的に城池を修理した。
「賊中聞見録」p.163-164
(注1)戊戌年→慶長3年(1598年)
(注2)乳父→いわゆる養育係。この場合は「後見人」という意味合いの方が強いかも。なお、平安末期~鎌倉時代には「乳父」はよく出てくるのだが、安土桃山時代に出てくるのは珍しいように思う。ちなみに「乳父」も「めのと」と読む(参考「乳母・乳父考」(西村汎子『白梅短期大学紀要』31)

秀吉が死ぬ前後の状況を書いた部分。ここも他の史料では見られない興味深い話が出て来ます。「諸将に後事を託した」のは他の史料も一致しているのですが、「徳川家康には淀殿を後妻にするようにした」とか「前田利長(※利家じゃない)を豊臣秀頼の乳父にした」とか言う話は見たことがないです。
あと「家康には東の諸将を率いて大坂に居らせ(中略)輝元には、西の諸将を率いて伏見に居らせ」と言う箇所ですが、ここは実際とは違いますね。史実では家康が伏見にいたのでした。
ところで秀吉が多くの養子女を持っていたのは事実なんだが、養女を有力者と結婚させる政策は余り有効に生かしてないような気がするのだが。むしろ養女の結婚を有効に使ったのは家康のほうかと。
戊戌年(注1)12月15日過ぎ、[加藤]清正と[黒田]甲斐守[長政]とが、先ず倭京に到着した。[小西]行長と[島津]義弘とは、12月の末に、追って倭京に着いた。
<清正が、先に戻って、行長の怯懦をあざ笑った。行長は、もどって来るや、また、
「清正は、朝鮮の王子を待たずに、陣営を焼き払ってあわてて退却(注2)し、和議そのものを、ほとんど成立させる寸前にぶちこわした。私と島津とは、唐の質官を連れ(注3)、落ち着いて殿を務めながら、後から戻ったのだ。私が怯懦か、清正が怯懦か」
と宣言した。[毛利]輝元等は、和議不成立の咎を清正のせいにし、清正は清正で、やはり行長がわが国[との交渉]に二心を持っている、と咎めた。議論はもつれにもつれ、反目はますます深まった。>
 石田治部少輔[三成]は、賊魁の大層な寵臣である。食邑は近江州にあって、その肥沃なことは倭国でもぬきんでている。
 [彼は、]増田[右]衛門正(尉)[長盛]・浅野弾正[長政]、徳善院[前田]玄以・長束大蔵頭[正家]らと共に五奉行となり、専ら国論を左右している。
 丁酉の役([慶長の役])から還って来た福原右馬助[長堯]なる者が、治部(石田三成)を通じて、[諸部隊が]留まったまま進軍しなかった、と[秀吉に]諸将を尽く訴えた。[蜂須賀]阿波守[家政]・[黒田]甲斐守[長政]・[藤堂]佐渡守[高虎]・[加藤]清正、[早川]主馬頭長政(注4)、竹中源介[重隆](注5)らが、みな譴責された。賊魁は、[早川]主馬頭[長政]や[竹中]源介[重隆]らの、豊後六万石の領地を奪って、[福原]右馬頭[長堯]への賞とした。
清正らが、全部撤[退、帰]還するに及ぶや、賊魁はすでに死んでしまっていたものだから、どうあっても右馬助を殺してしまうのだ、と身がまえたのであった。[石田]治部らの一党もまた右馬助を援助したので、党派がいよいよもって分裂した。
<家康は、清正・長岡越中守(注6)・福島大夫[正則]・[黒田]甲斐守[長政]・[蜂須賀]阿波守[家政]・[藤堂]佐渡守[高虎]・浅野弾正父子(注7)らと一党を形成し、[これに追随する]小大名に到っては、数え切れないほどであった。
[毛利]輝元は、備前中納言[宇喜多秀家]・筑前中納言[小早川秀秋]、石田治部[少輔三成]・増田[右]衛門正(尉)[長盛]・常州の佐竹[義宣]、奥州の[伊達]政宗と最上[義光]、出羽の[上杉]景勝、それに長束大蔵[頭正家]・島津義弘・[小西]行長らと一党を形成し、これに附く者がどんどん増えた。
[それらが、]朝晩に集まって謀議をこらすのが、まるでもう鬼いき(注8)のようであった。>
「賊中聞見録」p.167-169
(注1)戊戌年→慶長3年(1598年)
(注2)朝鮮の王子を待たずに~→慶長2年(1592年)の和議の条件の一つに朝鮮王子(臨海君李珒順和君李<王土>)を日本に人質に送る、という物があった。その王子の来日を待たずに清正が勝手に引き揚げたので和議が不調になったと小西行長がなじったのではないか、というのが訳者の朴鐘鳴氏の解説(p.169)
(注3)唐の質官→慶長3年(1593年)10月の和議交渉の時に人質となった明の茅国科と王建功のこと。
(注4)[早川]主馬頭長政→早川長政。福原長堯の讒言により領地没収されたのは史実のようだが、その後の関ヶ原の合戦でなんと西軍に付いてしまったというのは興味深い
(注5)竹中源介[重隆]→竹中重利。竹中半兵衛の親族というのは有名かと。福原長堯の讒言にあった一人であるのは確かだが、先述の早川長政と違って蟄居の憂き目には遭っていない。
(注6)長岡越中守→ご存じ細川忠興のことである この頃はまだ「長岡」姓だったらしい
(注7)浅野父子→浅野長政、幸長のこと
(注8)鬼いき→「いき」は「虫」偏に「或」と書く(unicode U+872E)。「鬼いき(きいき)」とは鬼やいさご虫のように陰険、という意味。

いわゆる武断派vs文治派の派閥対立を作ったと言われる、福原長堯讒言事件を書いている興味深い個所。
福原長堯は石田三成の親族であったために、いわゆる武断派武将が三成を恨む原因になったのは事実と思われます(実際、福原は関ヶ原の合戦で西軍に付き、敗戦後出家して伊勢朝熊山に籠もり恭順の姿勢を見せたにも関わらず殺害されています。)。
ただ、末尾の武将一覧はいただけないです(^^;)伊達政宗と最上義光がどうしたら西軍になるのだ。それともやっぱりこの時は時勢が流動的で政宗と義光はそういう振りをしたのだろうか。



実はまだ気になる箇所があるのですが、それを書くとかなり長くなるので項を変えて続けます。

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