拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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島津久慶は、島津4兄弟の一人・島津歳久の曾孫で、寛永頃の島津家の家老となり島津家久→光久2代に仕えますが、死後に系図から削除されるという異例の扱いを受けた人物です。
「本藩人物誌」では、その原因を久慶の養子・久予(久憲)の項で詳しく紹介しています。
以下箇条書き
比較的読みやすい「本藩人物誌」の中では珍しく読みにくい文章が散見され、勢いで訳した部分があるので、正確なデータを知りたい方は図書館で読むなりして実際の内容をご確認下さい<(_ _)>
が、すべてが事実だったのでしょうか?というのも「本藩人物誌」”国賊伝”の他の人物の伝記と比べても、出来過ぎというかこれでもかというか、あまりにも濃すぎるネタが多いのです。
島津久慶は、島津4兄弟の一人・島津歳久の曾孫で、寛永頃の島津家の家老となり島津家久→光久2代に仕えますが、死後に系図から削除されるという異例の扱いを受けた人物です。
「本藩人物誌」では、その原因を久慶の養子・久予(久憲)の項で詳しく紹介しています。
以下箇条書き
比較的読みやすい「本藩人物誌」の中では珍しく読みにくい文章が散見され、勢いで訳した部分があるので、正確なデータを知りたい方は図書館で読むなりして実際の内容をご確認下さい<(_ _)>
- 「於長」という美形の男子を百姓から取り立てて小姓とし、歴々の衆(島津家代々の家臣か?)に差し向けたり、節目には宮仕えの人に召し寄せられたりした
- その噂を聞いた島津光久が於長を鹿児島城で働かせるように命じたが言うことを聞かなかった
- 一向宗を信じて領内に広めようとした
- 幕府の大久保加賀守(大久保忠職か?)に取り入って島津光久の悪口を言上した
- そのため家老職から外して「異国方宗門方」という職に遷したところ、今度はそれを根に持って登城しなくなった
- かつて於長を差し向けた歴々の衆(の寝床?)にも密かに潜入し、その証拠として枕元の刀を盗ませた
- どういう事情か分からないが、その後於長が久慶の野心を家老衆に訴えて、やがて光久にも聞こえることになった。すると久慶は「於長はかねてから盗みを働く(先述の「刀泥棒」のことか?)悪人だったから、主人の無実の罪をでっち上げて陥れようとしたのだ」と申し開きし、於長を磔にした。
- 自分の私領に僧侶を呼び寄せ、光久を呪い殺そうとした(この僧侶2名は発狂して自害したとも)
- 家老衆やその他(於長を?)差し向けた衆らを毒殺しようとしたことも於長が訴えようとしたことである
- この噂を聞いた家老・三原左衛門(=三原重庸)に寺入りを申しつけたのも久慶の讒訴による物である
- 久慶の死後、久慶養子・久憲から久慶の野心の証拠があるとの話があり、於長の訴えがすべて事実だったことが分かった。そのため久慶を系図から削除した
が、すべてが事実だったのでしょうか?というのも「本藩人物誌」”国賊伝”の他の人物の伝記と比べても、出来過ぎというかこれでもかというか、あまりにも濃すぎるネタが多いのです。
- のっけから衆道ネタヾ(--;)
- 悪人=一向宗信者というのは島津家の常套手段(伊集院忠棟もそう。ただし忠棟の場合はどうも妻は実際に一向宗徒だったようだが)
- 自分が人の物を盗んでおいて、後にその罪を家臣になすりつけた…というと大悪人だが、その家臣がのっけに出てきた衆道の相手というのがいかにも胡散臭い。
- 当主(島津光久)を呪い殺そうとする 但し「呪殺の罪」というのは実際にやったかどうかが分かりにくく、奈良時代の昔より政敵失脚の陰謀のタネになりやすいのも事実(例:井上内親王の失脚)
- これら久慶の「陰謀」が死後、それも養子(実の甥)の告発によって発覚する
- しかもこの養子、その後何故か理由不明のまま種子島に流刑
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