拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
第1話 第2話 第3話
…予想外に時間がかかってるな(-_-;)…
では島津綱貴さんの人物評です。
ちなみに、祖父・島津光久が女癖が悪かったらしいのは事実です_(。_゜)/。島津家の公式系図『島津氏正統系図』や幕府側作成の公式系図『寛政重修諸家譜』での光久の子女には「母家女房」「某女」というのが多数出てきますが、これはストレートに言ってしまうと「いわゆる女中として使えていて、身分が低すぎて側室にも出来ない女性」ということなのです。これが当時の諸大名や、島津家の他の当主と比べてもかなり異常な比率で、光久の子供38人の内22人は実母未詳となっています。側室も名前が判明している限りで10人で、光久はあきっぽいのか?複数の子を儲けた側室は1名しかいないなどかなりのはちゃめちゃぶりです。…こういうところに『土芥寇讎記』の著者はすごく興味があるのか、他藩でもよく言及されています。…『土芥寇讎記』の著者はミーハーだったようだ…ヾ(^^;)
一方、綱貴は正室2人(初妻・松平信平の娘は早世、次妻・上杉綱憲の娘(実は吉良上野介の長女で、綱憲の姉妹)は離婚)、側室3名、「家女房」のようなアヤシイ人物は一人も無し!ヾ(^^;)…で、この時代の大名としては、割とまともな家族関係であったようです。
次に、地元での噂と『土芥寇讎記』著者の個人的感想が入ります。
ともかく、島津綱貴さんは『土芥寇讎記』の著者から見ると、これ以上はないけなすところのない殿様だったようです。…この5代後に後先考えない浪費家のゴージャス重豪みたいな曾孫が誕生するとは、誰が想像したであろうか…ヾ(--;)
次回は佐土原藩主です。登場した人物の名前を見て驚く無かれ。
続く。
…予想外に時間がかかってるな(-_-;)…
では島津綱貴さんの人物評です。
…もう、歯が浮きまくるくらいの誉めっぷりで、読んでいるこっちの方が恥ずかしいぐらいですが。綱貴は文武両道を心掛け、且つ記録を好み、義理を違わないことを志し、家臣や民に至るまで哀憐をたれ、行状も寛々悠々として、誠に大名の風格を漂わせてい る。国家の政道が大変宜しいので、人民はよく従っている。祖父の大隅守光久は美女を侍らせているという噂があったが、綱貴にはそういった話はない。生まれ 持った才知に加えて、純直な志を持っている。
ちなみに、祖父・島津光久が女癖が悪かったらしいのは事実です_(。_゜)/。島津家の公式系図『島津氏正統系図』や幕府側作成の公式系図『寛政重修諸家譜』での光久の子女には「母家女房」「某女」というのが多数出てきますが、これはストレートに言ってしまうと「いわゆる女中として使えていて、身分が低すぎて側室にも出来ない女性」ということなのです。これが当時の諸大名や、島津家の他の当主と比べてもかなり異常な比率で、光久の子供38人の内22人は実母未詳となっています。側室も名前が判明している限りで10人で、光久はあきっぽいのか?複数の子を儲けた側室は1名しかいないなどかなりのはちゃめちゃぶりです。…こういうところに『土芥寇讎記』の著者はすごく興味があるのか、他藩でもよく言及されています。…『土芥寇讎記』の著者はミーハーだったようだ…ヾ(^^;)
一方、綱貴は正室2人(初妻・松平信平の娘は早世、次妻・上杉綱憲の娘(実は吉良上野介の長女で、綱憲の姉妹)は離婚)、側室3名、「家女房」のようなアヤシイ人物は一人も無し!ヾ(^^;)…で、この時代の大名としては、割とまともな家族関係であったようです。
次に、地元での噂と『土芥寇讎記』著者の個人的感想が入ります。
…引き続き、読んでる方が恥ずかしいよ〜ヾ(^^;)−噂話では、この人(=綱貴)は文武を志し、義理をただして、民衆を哀憐しているが、これらは「主将たる者がもっぱら守らなければいけないこと」であり、 つまり、忠節の志が深い人物であるといえよう。太平の時代に与えられた国を安全に治め、一揆動乱もないことは、これ「忠」であるといえる。次に、家臣領民 を憐れみ、大勢の士卒の心が一致していると言うことは、自然と万人に勝ち、一方の的をたちまちにして退治し、功を立てることが出来よう、これは「忠節」と 言える。例え100万の軍隊を養っていても、人使いが悪くて、部下が上司を疎み、恨みを含み、不和であるときには、小勢を相手に闘っても勝利を得ることは 難しいものである。兵法には「天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかず」云々と言うではないか。人の和のある小軍隊が不和の大軍隊に勝つことは、 古今の例にも数多い。如何や、人の和のある大軍隊は、立てば必ず勝利を得よう。たとえ、文武を心掛ける人がいても、不義の奢りに長じて政道に背けば、その かいは無い物である。しかるに、綱貴は、家臣領民下々に至るまで哀憐をたれており、これは主将の一番の徳という者であり、おのずから威儀が備わってくるの で、国家は静謐となり、武運も繁栄するのである。およそ民衆がよく上に従い懐くのは、上一人の心がけによるものである。されば、いかに弱々しい武将であっ ても、家臣領民は少しも恨むことはなく、良く従い、その将の悪評は現れず、国家は完全に治まるのである。綱貴を「情けの武将」と言えば、もし混乱の時代と なっても、軍術の利を持って、付属する侍達は誉れ高い仲間を多く迎えて(綱貴を)仰ぎ従うであろう。今のような泰平の時代においては、その勇敢な評判が外 にも聞こえてくる。つまり、綱貴は誠の善将なのである。
ともかく、島津綱貴さんは『土芥寇讎記』の著者から見ると、これ以上はないけなすところのない殿様だったようです。…この5代後に後先考えない浪費家のゴージャス重豪みたいな曾孫が誕生するとは、誰が想像したであろうか…ヾ(--;)
次回は佐土原藩主です。登場した人物の名前を見て驚く無かれ。
続く。
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