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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
第1話 第2話

ようやく島津綱貴本人と家系の説明は終了。
次に肝心?の領国情勢の説明が始まります。
居城は薩摩国鹿児島肥前国筋(の場合)海陸411里、内大坂まで海陸277里、鹿 児島薩摩京泊まで陸路で15里、これより船を出すか鹿児島より京泊湊まで海路で49里、大坂まで310里。日向国筋伊予路の場合、鹿児島より江戸まで海陸 325里、但し大坂まで191里、鹿児島より日向国細島津まで船路で105里、大坂まで354里、日向国筋豊後路の場合、鹿児島より江戸まで海陸347 里、但し大坂まで海陸213里、細島より船を出し(伊予路と同様の場合)鹿児島より大坂まで船路で276里。右の他に、大隅国・日向国半国・琉球国123000石を合わせて合計729000石但し御前帳には605600石とあり。新 地開発や諸々の運上(=一種の地方税)や課役(=肉体労働で納める税)や掛物(=付加税)を併せると都合100万石あまりになるといわれている。前代の検 地をしていないので、正確な石高というのは未詳であるが、だいたい今までの説明であっているであろう。米は良く育つ。支払いは悪い。年貢の取り立て割合は 所々で差異があるが、だいたい4割から6割までである。家来には直接土地を与えている。参勤交代で江戸にいる年は、特別手当があり、他にも特例がある。国 には獣や魚、柴や薪になるような木材などが豊富である。遠国ではあるが城下は繁盛しており、物は自由に買える。民は豊かであり、武士も豊かである。

…最初の江戸から鹿児島までの距離の説明を読んでいると『魏志倭人伝』の最初の一節を思い出しました(^^;)非常にややこしい上、計算も合わないような気がするのですがヾ(--;)、簡略に申し上げると
(1)熊本佐賀経由ルート
(2)宮崎→愛媛経由ルート
(3)宮崎→大分経由ルート
の順に紹介されています。単純に距離が短いのは(2)ルートですが、参勤交代で使われたことはほとんどないようです。ちなみに(2)ルートを取ると、親戚に当たる伊予松山藩を通ることになるので、一見良さそうに見えるのですが。江戸時代後期には一番距離が長く、当然費用もかかると思われる(1)ルートが使われることが多くなります。ちなみに古来からよく使われていたのは(3)ルートで、島津義弘が関ヶ原の合戦後、大坂から脱出したのもこのルートです。

次に、興味津々(0・∀・)ワクテカ の総収入の話になりますが、いわゆる「表高」、それも島津家お得意の捏造水増しヾ(--;)の72万9千石の文字が輝いております。これ、いわゆる「籾高」(普通石高は精米後の米で測るが、鹿児島藩の場合(1)武士の人数がやたら多い(2)他の大名の風下に立つの嫌じゃ!…など諸般の事情により、精米前の籾の状態で嵩を測り、水増しの石高を出した。ので、実収は半分の37万石程度だったといわれている)更にその後、付加税とかいろいろで実収100万石越えてる(ヲイ)とか言われてるやん…。こんないらないミエ張るから、いろいろ幕府から嫌がらせされちゃうんだよ…。最後の方で、「前代の検地(寛文検地か?)をしてないから正確な収入わかんない」と言われてますが、これは幕府の検地役人を入れていないだけで、実際は鹿児島藩は何回も「内倹」と言われる内輪の検地を行っています。勿論、そのたびに石高は上がっていっているわけですが。但し、実際に収益が増えていたのかどうかは未詳。

次に、藩内がどれくらい豊かであるかという話しにかわりますが
「米が良く育つ」という点は…ホントにちゃんと調査して書いたのか、これヾ(--;)。鹿児島県がシラス台地が多くて余り米が育たないのは今でも有名ですが。但し、その後で「支払いは悪い」(※この時代は「かけ払い」で買い物代金はつけ払いだったので、支払いの善し悪しは信用の評価点であった)と言う所を見ると、やっぱりちゃんと調査してるのかなヾ(--;)
また、鹿児島藩は諸藩の中でも税率が一番高い藩の一つとして著名で、「八公二民」(つまり税率80%!現在の北欧(税率50%強)より高い!)といわれていますが、元禄のころには四公〜六公だったようです。これでも現在から見るとかなり高い税率ですが、他藩と比べるとそれほど高くもないようです。
次に書かれていることは、鹿児島藩の特徴でもありますが、家来には直接土地を与えるという中世的な制度が残っていたことが明言されています。ちなみに給米制の藩は「蔵米を下す」というように『土芥寇讎記』では書かれています。また、参勤交代で江戸に出府するときには別途お手当もあり、民衆も武士も豊かと書かれています。…江戸時代末期に頼山陽に「豊後(=大分県)も江戸より酷いと思ったが、鹿児島は豊後より更に下で、こんな底辺な処があるとは思わなかった」と書かれてしまいますが、元禄のころは、そこまでは転落してなかったようです…(T-T)
続いて、それらの武士の風俗についての話に変わります。
新規雇い入れの武士はおらず、古くから使えている輩ばかりなので、家中の風俗は宜しくない。話す言葉は外国人に近い。但し、武士の行儀は正しく、勇敢であることを第一として、恒に死を恐れていない。良く法を守っており、古風にしてへつらいが無く、諸芸を学ぶ人が多い。
…江戸時代末期、というか明治時代初期まで言われ続けた薩摩藩士の特徴がそのまま書かれてまんがなヾ(^^;)。一番興味深いのは「話してる言葉が外人みたいじゃ、わかんねー」と言われているところか。遠国大名といえば津軽(津軽藩)もそうだが、津軽の項を見たら、そういうことは書かれてませんでした(そのかわり?政治経済に関してはぼろくそだったが)。この頃は、松前氏(松前藩、蠣崎氏)は取り上げられてないようで、項目無し。

次に家老の話に移る。
 家老    嶋津図書
同 中務
同 縫殿
同 大学
右の他に伊勢とか伊集院などがいるらしいとか。
「嶋津図書」は島津図書頭久竹のこと。島津忠長の曾孫に当たる人物で、宮之城島津家という代々家老筆頭を務める家の出身です。「嶋津中務」は永吉島津家の出身であることは確実なので、島津久輝だろうか。「嶋津大学」は不明。
『三州諸家史・薩州満家院史』(国土社)という昭和40年に出た古い本に、鹿児島藩の歴代藩主と家老の一覧表が載っていますが、綱貴には17名の家老がいたことが分かります。そのうち島津姓なのは
島津久元(久元は慶長〜寛永期の名家老だが、この時死んでいるので、間違いのように思われるが、同名の別人がいるのだろうか)、島津久竹(既出)、島津久輝、島津忠守、島津(旧姓「佐多」)久達、島津久當、島津久洪(旧名「久雅」)島津久明
とのこと。
ちなみに『土芥寇讎記』では「他に伊勢とか伊集院とかいるらしい」と書かれていますが、どうも先代光久や家久の家老と混同があったと思われます。



まだまだ続く_(。_゜)/

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