拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前回の話はこちら
前回にご紹介したのは、いわゆる「ご紹介」の部分で
これから本編に入ります。
(前回同様、『土芥寇讎記』の引用は、すべてばんないの訳です)
後一つ間違いを指摘すると、「本国も生まれた国も薩摩国」としていますが、綱貴は正室・松平定頼女(実名未詳)を母として江戸に誕生しているので、「本国薩摩国、生国は武蔵国」というのが正解。ちなみに、この頃になると江戸藩邸で誕生した殿様が多いために「生国武蔵国」と書かれている人の方が圧倒的に多いです。
今も論議のネタになる島津忠久の出自については後述。
義弘が義久の養子になったという事実は同時代史料では確認できず。豊臣秀吉の命(?)により、実質的に当主と見なされたのは慶長元年。まあ、元禄頃には世間的にはそういう認識だった(というか、島津家がそう吹聴してた?)らしいのが伺えて興味深いです。
それと、これが大きな間違いだが「又三郎」は義弘の字じゃなくて、義久のですね。…ほんとにこの本、大丈夫なのか???ヾ(--;)
家久(元忠恒)の官位の変遷には特に問題なし。この辺は別の資料を見て書いたのかな。ただし没年が3歳ずれてるけど(^^;)
次に家久の息子・光久の話が出てきます。さすがにこの辺になると元禄時代に近いためかどうか巨大な間違いはない。興味深いのは、父・家久に比べて明らかに官位の上昇が抑えられていること。
そして
次に
最初に書かれた「島津忠久頼朝末裔説」なのだが、元禄初年の時点で既に疑義がはさまれていたというのが興味深い。…疑義をはさまれつつも、その後『寛政重修諸家譜』など幕府の公式文書をはじめ『島津家正統系譜』に至るまで、しつこくこの説が定説として載せられ続けられるわけだが…(^^;)
ちなみに、『東鑑』は『吾妻鏡』の事だろう。『盛長私記』はこの当時は鎌倉時代の資料として評価が高かった物らしいが、現在は偽書として資料価値は0となっているらしいこちら。『武衛家譜』は未詳。
…結構長文になってきた。ちなみに、鹿児島藩は他藩より短いほうなんですけどね_(。_゜)/
ということで、更に続く。
前回にご紹介したのは、いわゆる「ご紹介」の部分で
これから本編に入ります。
(前回同様、『土芥寇讎記』の引用は、すべてばんないの訳です)
ここでは本国(一族の出身地)と出生地、略歴と家系の説明があります。…家系、「忠行」っていきなり間違ってるやん(正しくは前回の話で書いたとおり「忠竹」。)本国も生まれた国も薩摩国。本名は嶋津氏である。松平薩摩守綱久の子で、大隅守光久の孫に当たる。幼名は又三郎。寛文13年2月19日に父・綱久が亡く なった。この時享年42歳。このため、綱貴が家督を相続した。祖父・大隅守光久が存命であったので綱貴を後見した。彼の先祖は貴久(陸奥守)、義久(修理 大夫、剃髪して龍伯)、義弘(従四位下、兵庫頭)、家久(従三位、中納言大隅守)、光久(大隅守、中将)、綱久(薩摩守)、綱貴(薩摩守、少将)、忠行 (又三郎)
後一つ間違いを指摘すると、「本国も生まれた国も薩摩国」としていますが、綱貴は正室・松平定頼女(実名未詳)を母として江戸に誕生しているので、「本国薩摩国、生国は武蔵国」というのが正解。ちなみに、この頃になると江戸藩邸で誕生した殿様が多いために「生国武蔵国」と書かれている人の方が圧倒的に多いです。
何ともびみょーにつっこみどころのある文ではある(^^;)ここの家伝で言うところでは、鎌倉右大将・源頼朝公の三男・嶋津左兵衛尉忠久は、初め宗兵衛尉と名乗り、左衛門尉、判官、豊後守などの受領を経て、越前・ 若狭・伊勢・信濃などを領していた。後に大隅、薩摩、日向三カ国を賜ったとか。この三カ国を領し、数代続いて家禄を全うした。修理大夫義久の時、天正15 年の夏に太閤豊臣秀吉卿に和平を請い、(引き続き)三カ国を治めていたが、慶長5年9月15日に関ヶ原の合戦で敗北、兵庫頭義弘は家康公に降伏して本領を 安堵したのである。義弘は義久の養子で、実は弟であり、陸奥守貴久の次男である。初め「又三郎」と号し、従四位下に除せられて参議に任ぜられた。慶長五年 に兄・義久の家督を継ぎ、元和5年7月21日死去。享年85歳。妙円寺前参議四品自貞松齢大居士と号した。
今も論議のネタになる島津忠久の出自については後述。
義弘が義久の養子になったという事実は同時代史料では確認できず。豊臣秀吉の命(?)により、実質的に当主と見なされたのは慶長元年。まあ、元禄頃には世間的にはそういう認識だった(というか、島津家がそう吹聴してた?)らしいのが伺えて興味深いです。
それと、これが大きな間違いだが「又三郎」は義弘の字じゃなくて、義久のですね。…ほんとにこの本、大丈夫なのか???ヾ(--;)
…実はここにも間違いがあって(汗)島津但馬守忠久って誰やねん。※正解は島津忠興と思われる。また、佐土原藩自体の成立が慶長14年ではなくて、慶長7年です。しかも鹿児島藩の本領を分けた訳じゃなくて、島津豊久の領地を江戸幕府が一端収公し、あらたに島津以久(島津義久・義弘の従兄弟で、忠興の父)に与えたというのが事実。…何でこんな別物の話になったんだろう。というか、これ鹿児島藩の主張を真に受けて書いたのか? あと、琉球侵攻の経緯が「幕命」による物と明言されているのは興味深い。その子の大隅守家久は、はじめ「又八郎忠恒」といい、将軍家より「松平」氏と(家康の)諱を拝領し「家久」と改名した。慶長14年2月に幕命により琉球国 を攻め取り、同年7月琉球国を賜った。この時に持ち高の内三万石を島津但馬守忠久に分け与え、日向国佐土原に配した。元和3年7月18日に家久は参議に任 じられた。寛永3年には従三位権中納言になった。同15年4月21日に亡くなった。この時60歳。
家久(元忠恒)の官位の変遷には特に問題なし。この辺は別の資料を見て書いたのかな。ただし没年が3歳ずれてるけど(^^;)
その子の大隅守光久は、初名は「又三郎忠元」といい、寛永8年4月21日に従四位下に叙せられ、侍従兼薩摩守に任じられた。正保4年11月13日に武蔵国 王子村に於いて将軍家光公の命により犬追物を上覧に入れた。慶安4年12月25日、左近衛権少将に任ぜられた。同月25日に大隅守に改める。延宝元年12 月28日に権中将に任ぜられ、同2年正月7日に従四位上に叙せられる。
次に家久の息子・光久の話が出てきます。さすがにこの辺になると元禄時代に近いためかどうか巨大な間違いはない。興味深いのは、父・家久に比べて明らかに官位の上昇が抑えられていること。
次は、藩主になることなく亡くなった綱久の話です。幼名「処寿丸」は勿論間違いで、正しくは「虎寿丸」。この頃になると、島津家の当主or当主予定者の初叙は従四位下侍従兼薩摩守というのが固定化しているようです。42歳はこの時代としては決して短命ではないんですが…光久が頑丈で、なかなか隠居しなかったのでこういう結果に成っちゃいました。その子・松平薩摩守綱久は、幼名「処寿丸」後に「又三郎」と改めた。慶安4年12月26日に従四位下に叙せられ侍従兼薩摩守に任ぜられる。寛文13年2月19日に父・光久に先立って亡くなった。この時42歳。
そして
となったわけです。綱貴の経歴は最初に書いてあるから省略されてます。その子・松平薩摩守綱貴は祖父・光久から家を相続した。家伝の大略はこのようなところである。
次に
とあるのは、注目のポイント。私的には、島津左衛門尉忠久は右大将頼朝卿の三男といっているが、不審である。このことは『東鑑』『盛長私記』並びに『武衛家譜』等には見えない。追考する。
最初に書かれた「島津忠久頼朝末裔説」なのだが、元禄初年の時点で既に疑義がはさまれていたというのが興味深い。…疑義をはさまれつつも、その後『寛政重修諸家譜』など幕府の公式文書をはじめ『島津家正統系譜』に至るまで、しつこくこの説が定説として載せられ続けられるわけだが…(^^;)
ちなみに、『東鑑』は『吾妻鏡』の事だろう。『盛長私記』はこの当時は鎌倉時代の資料として評価が高かった物らしいが、現在は偽書として資料価値は0となっているらしいこちら。『武衛家譜』は未詳。
…結構長文になってきた。ちなみに、鹿児島藩は他藩より短いほうなんですけどね_(。_゜)/
ということで、更に続く。
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