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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
『中山世譜』は江戸時代の頃に編纂された沖縄(琉球王国)の歴史書である。
これに島津亀寿のことが出てくるのだが、変なのである。

世譜巻之一
(中略)
泰昌元年庚申。為進香惟新公事。遣馬氏伊計親雲上良徳。至薩州。
本年、為弔国分御上薨事。遣章氏安谷上親雲上正勝。至薩州。
本年九月。為奏尚寧王薨、尚豊王承桃事。法司・毛氏読谷山親方盛韶。至薩州。
(『中山世譜』蔡鐸本附巻)

世譜巻之一
(中略)
泰昌元年庚申。為弔祭惟新公事。遣馬氏伊計親雲上良徳。至薩州。四月回国
本年、為弔祭国分御上薨事。遣章氏安谷上親雲上正勝。至薩州。翌年二月回国。
本年九月。為稟報尚寧王薨、尚豊王即位事。法司・毛氏読谷山親方盛韶。至薩州。翌年回国。
(『中山世譜』蔡温本附巻)

琉球王国は基本的に中国の年号をそのまま使っているのだが、「泰昌元年」は1620年のことである。なので、叔父・義弘(惟新公)のお悔やみに来ている(前の年に死去)のは間違いじゃないのだが、次の項目で、この年に亀寿も死んだことになってしまっている(○。○)
ちなみに同年尚寧王が死んだのも確実なので、事実2つにはさまれたこの記事は他の年度からの混入とも考えがたい…。

いくつか考えられる予想
(1)「薩藩旧記雑録」など島津氏側の史料に書いてあるデータが間違い
→亀寿の命日は死んだ後も何回も出てくるので、間違いの可能性は薄いと思う…
(2)父・義久と間違えられた
→義弘を「惟新公」と書いてあることから類推するに、義久は「龍伯公」と書かれないとおかしいし、加えて義久の没年(1611年)とかなりズレがあるのが問題点か。
(3)実はこの『中山世譜』の記述間違ってない。間違った情報を伝えたのは当時の鹿児島藩
→ないない!…といいたいところだが、家久(忠恒)の外道な性格を考えると全くあり得ないとも言い切れないところが…亀寿+琉球王国両方の面目つぶせるしね。

琉球使者「亀寿様が亡くなられたということでお悔やみに上がりました…ってあれ?」
亀寿「私生きてますけど(-_-#)」
琉球使者「⊂(。Д。⊂⌒`つ」
-------------
その頃鹿児島城では
家久(忠恒)「ひひひ、嫌がらせ成功したぞ」



『中山世譜』については
『鹿児島県立短期大学研究紀要』25「島津氏の琉球侵攻に関する一考察」虎頭民雄
を参照させて頂きました(ちなみにCINIIから検索すると無料で読めます)

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