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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前の話はこちら



『北海道戦国史と松前氏』を読んだときに参考史料としてあげられた『三川雑記』と言うのが何だか気になって地元の図書館を検索してみたら、何と所蔵してたので取り寄せてみた。
江戸時代後期の儒学者・山田三川という人が書いた雑記録、といった内容です。文体は漢字カナ交じり文で、古文苦手な人も何とか読めると思います(多分)

が、問題なのはかなり古い本(昭和47年刊)なんで、索引の類が全くついてないこと_| ̄|○
目的の文がどこに載っているのか皆目検討がつかない…。
仕方ないので、貸出期間の2週間…いや実際オーバーして2週間超えたけど(図書館の皆様ごめんなさい)、必死になって読みましたよ、全555ページ⊂(。Д。⊂⌒`つ


内容は、江戸時代も幕末近くになった天保頃からの、外圧と飢饉による内政混乱の日本の諸事情を書いていて興味深い物でした。幕末史に興味のある方は必読かと。
あと、江戸後期には戦国時代の話がどう伝わっていたかというのが伺える話もあります。

いくつか、島津氏(鹿児島藩)についても言及している個所があったので紹介させて頂きます。
ただし、原文通りに入力するとかなり大変なので、意訳と言うことで。興味のある方は図書館で借りてみて原文を確認して下さい(汗)

ではまいる
※「つづきはこちら」をクリックプリーズ




さて、前の話で引用した話は、原文はこうなってます。
あるとき松前公の仙だいへ薩候の栄翁の入せらるる相伴に出らるに栄翁候来られこれはと尋ねらるるに松前也とあればははあエゾ大王だのとありしに仙だい候とりあえず、これは私親類頭なりとあいさつありけり。公かへりて今日は仙だいに恥辱をすすがれたりと柴田にかたりたまう。(文十)
(p.304)
栄翁=島津重豪。
なお『北海道戦国史と松前氏』によると、江戸初期に松前氏は一族の一人を伊達氏の家臣として送り込むことに成功してる(後に親藩扱い)ので、伊達の殿様が「松前の殿様はうちの親戚なんです」といっているのはあながち間違いではないです。
なお、この話には
「松前の殿様が引っ越しをしたとき、薩摩のさる家老が仙台藩邸に行き、”松前の御家の義のことは致し方ないことで、何とか今回はこちらでお世話したい”と言い、10万石分の費用を使って家来を残らず引き取り、松前の殿様を客として迎えようとしたので、松前家は親戚に相談したところ、柳生の殿様が"そんな話を受けよう物なら、松前に帰国したときに御家の恥と言われますぞ"と猛反対したので、結局柳川藩の世話になった(この話も文十に聞いた)」(p.305)
と言う続編があります。
ちなみにこの当時の柳生の殿様は柳生俊則と考えられる。松前道広の叔父。

では他のエピソードもいってみよう!…上の話が霞むくらい結構ひどい話が多い(爆)

・山内家に将軍様の姫君がお嫁に行くという話があったんだが、山内家はビックリして一夜のうちに島津家にお助けを求めて、将軍家の縁談は断ったってさ。それからというもの、上野芝の手伝い普請を押しつけられて困った山内家は、幕府のこれは!と言う上役に賄賂を送って助かったそうだ。でも物いりが多くなったって。(p.8)
→この時に将軍様(=徳川家斉)の娘の代わりに山内家に嫁に行ったのが島津斉彬の同母妹・候姫である。この「御守殿」問題については他にもいろいろ書かれているのだが、次回以降にご紹介する予定。
・薩摩で伊東家の話なんかしてみろ、侍連中はみな力み出すそうだ。伊東家なんて小国だから構わなくてもいいのにと思うが、隣国の敵なので心に引っかかるところがあるらしい。また薩摩の歌には「伊藤崩れ」と言う題の物まであるそうだ。これは伊東家が合戦に負けたときの様子を歌にした物らしい。(この話は古賀から聞いた)(p.67)
→戦国時代からの因縁の関係を江戸後期まで引きずってたというお話。(ちなみにこの話を山田三川が書いたのは天保5年)
・薩摩で「少年の誓い」というのは、指で腕の革をつまみ上げ、刀で刺し通し糸を通すことだそうな。或いは髪の毛を通すとも。(p.71)
→衆道!衆道!ヾ(--;) しかし江戸後期でも根性焼き系のエピソードには事欠かない鹿児島藩。
・先年、大津にてある賤しい遊女が薩摩の侍へ迫ったとき、侍はうるさいので100文をくれてやり断った。その後、また別の遊女が迫ってきたが、今度は斬り殺してしまった。これは、何者とも知れない者が居間に勝手に入ったので盗賊と思って切り捨てたと侍は弁明し、それで済んでしまった(この話は満岡から聞いた)(p.145)
→やっぱり予想通り江戸後期でも情け容赦無いで通っているらしい薩摩武士。
・薩摩の兵は朝鮮出兵でもらった感状は尽く焼き捨てたらしいとか。その理由は、家臣として君主のために働くのは当然のことで、どうして禄を与える感状をもらって主君を損耗させるのか、とみんな焼き捨ててしまった。なので今は朝鮮の感状を持っている者は一人もいないんだとか。今も焼き捨てた場所が残っているらしい。(この話は岩崎から聞いた)(p.164)
拙ブログのこの辺の話も参考に。でもこれは裏話があって、島津義弘が騙して全部かき集めて焼いたという噂が『加治木古老物語』(鹿児島県史料集所収)に載ってる(^^;)
・鹿児島藩は万石の家臣も100石取りの家臣も上下はない。近来はそれでも上下の区別ができたそうだが、他藩と比べたらたいしたことない。また郷士などもやはり藩主の馬廻りになって江戸詰めになったりもするそうだ(この話も岩崎から聞いた)(p.164)
→そうかなあ?(゜_。)?(。_゜)?
・薩摩の学校へは琉球人が3,4人は常に留学しているらしい。また、屋久島、種子島、喜界島などの人も修学しているとか(この話も岩崎から聞いた)(p.165)
→「薩摩の学校」とはおそらく造士館のことかと。屋久島、種子島の侍が造士館に入るのは分からなくもないんだが(屋久島は藩主直轄領、種子島は家臣・種子島氏領)、琉球や喜界島(琉球出兵後に支配下に入れる)はいかがだったんだろうか。詳しい方の御教示おまちしてます。
・先年、幕府が「琉球も測量するんじゃー」といって役人を派遣したんだが、その時は船頭は覚悟を決めてわざと船を難破させて沈没させてしまった。ともかく琉球へは他国の人は行ってはいけないらしい。(この話も岩崎から聞いた)(p.165)
→「琉球も測量するんじゃー」原文は「琉球を打ちまわるべし」 そういえば伊能図には北方4島は載っていても琉球はのってなかったような、曖昧な記憶。
・薩摩に飯野という所がある。ある郷士がいて、夜に山で猟をしようとして柵を作って猪を待っていたところ、7つ時頃に女の鼻歌が聞こえてきた。暗い夜だったので顔も服もよく分からず「これは怪しい」と思った。そこで「もし間違って人だったら自分が切腹してお詫びしよう、こんな山中にこんな時間に女が来る理由は無いじゃないか」と考え、弓を射たところ、すさまじく大きな声がして、踏み荒らすような音をして逃げ去った。翌朝、血をたどってだんだん行くと、深い谷にたどり着いた。血の道筋は大石の間に入っていった。その穴は1尺余りほどもあったので入ることができずに帰宅した。それから猟は辞めたとのことである。すべて怪しいことがあるときは猟はやめるものである。(この話は岩崎から聞いた)(p.166)
→薩摩怪奇話。
・鹿児島藩の高輪屋敷に革の船が多くある。1船が合羽10枚ほども合わせるほどの厚みがある。それを投げると船になる。万一のことがあるときは、その船に乗って品川沖の本船まで逃げようという用心のために作ったとか。(この話は岩崎から聞いた)(p.168)
→今で言うところのゴムボートタイプの救命ボートなんだろうか。興味深い。なおこの話については品川沖に常に停泊していて幕府も手入れできない(老中の水野忠邦が賄賂を受け取ってたらしい?!)鹿児島藩の3隻の船と関係があるんじゃないかと後述されている(p.337)
・薩摩から江戸までは海路三日ほどで直行できるのに、禁令のため玄海周りらしい。肥前からも南の大洋を乗り切れば大いに便利が良いはずなのにやっぱり禁止されてるとか。これは異国の船と互いに交易してるんじゃないかと幕府が疑ってるからだろう。(p.175)
→そればかりか篤姫の婚礼の時には、海路を使ったのは小倉→下関だけとか聞いたことあり。海路はうまくいけば短縮コースだが、当時は遭難の危険も多いので回避された可能性もあるかも。
・今の鹿児島藩主は馬に乗れないらしい。なので火事の時には駕籠に乗って避難したらしい(p.191)
→これが書かれたのは天保7年なので、島津斉興のことだろうか。流石に江戸後期とは言えかなり恥ずかしいことなので明記された可能性が高い、かも。
・江戸にて一向宗が10万両ほど賄賂を使って自分の宗派が(鹿児島)藩中に広まるように工作をした。圭山公の時である。そのことを英翁公が聞き、隠居の身なのに「藩が始まって以来切支丹と一向宗は同類、布教を許すとは何たる不届きじゃ!」と圭山公を押し込めて隠居させ、そのことに関わった家老や要人など40人余りが切腹させられた。(p.193)
→圭山公(渓山)=島津斉宣、英翁公(栄翁)=島津重豪。これは近思録崩れに関する貴重なエピソード。ただ、事実と違う情報をつかまされたようで(苦笑)島津斉宣の強制隠居は一向宗が原因としています。江戸時代の鹿児島藩は、御家騒動も桜島が噴火して被害を及ぼすのもうちの鶏が卵を産まないことまで全部一向宗が悪いで済ましている傾向があるような気がヾ(^^;)
・薩摩の人は気性は素直で武に偏っている気がある。しかしながら義勇のことを聞けば深く感動している。日向はその点隣国なんだけど違ってる。その内、飫肥は気性は良いんだが悋気がある。佐土原・延岡なんかは大いに気性が悪い土地柄だとか。一つは上の政治のせいもあるかも。(この話は長倉から聞いた)(p.212)
→江戸後期でも薩摩武士=脳筋系という評価なんだろうかヾ(--;) 佐土原は島津の親戚筋なんですけどね、そんなに気性違ったんだろうか。
・鹿児島藩の景山公に臣下が言上するときは何れも「おまえ様」と言うそうだ。これは古い言い方と思われる。『曽我物語』でも曽我十郎が和田に盃を譲るときに「これはお前へ」と言ってるところから推測できよう。(p.218)
→「景山公」=渓山公こと島津斉宣。ちなみにこれが重豪や斉興になったときはどう変わるんだろうか。興味がある。
・鹿児島藩は借金が巨額で困っていたが、大夫の計らいである大阪の出入りの町人に計ったところ、その町人の工作で、町人同士の借金証文で棚上げになっている物が大量にあったのを、一万両の証文を百金・二百金にて出入りの町人へ買い込ませておいた。さて、鹿児島藩には大名貸しが幾軒もあったが断ろうとしたのを承知しなかった。よって、長々と出入りしていたが、この時節に返金を暫く待つのを約束しないとはなんて不心得なんだ、として以後出入りを差し止めてしまった。そして元金だけを返して利息の返済は当分断ったという。そのため、詮方なく手を引いてしまい、後には金貸しは居なくなってしまった。このような提案をやって借金を片付けた。その元金を返すのに、鴻池の場合は鴻池の他の町人を子細があると言って帰さずに買い込んで置いた借金証文で返すものだから、受け取った方も理屈は通っている物だから平伏し、かれこれ言うこともできなかった。こうしてその提案をした町人だけが鹿児島藩の御用聞きになったとか。薩摩の砂糖もすべてその町人が扱うようになり、大いに儲かっているそうな。(p.220)
→あこぎなカゴシマン借金返済テクニックヾ(^^;) みんな真似しちゃ駄目ですよ
・薩摩から琉球へ行く貿易船はいつも甚だしく壊れてくる。しかるに、昔から軍船で壊れる船は一つもない。これは利益だけを考えて急いでおり、日和を見て船を出さないからである。中国の船はいつも薩摩に着いてから長崎へ行く。輸入品を買って琉球へ早く持っていけば必ず大もうけできるからだ。(p.222)
→江戸後期の鹿児島の密貿易事情。藩外にもバレバレ(^^;)。こうなると全然密貿易でもないか。
・薩摩から中国へはとっても近くて、カツオ取りの船乗りが船を出したら中国側の火が見えるところまで行って帰ってくることもしょっちゅうだとか。(p.223)
→この頃から有名だった薩摩のカツオ?
・昆布は中国で珍重されている。薩摩の船が多く抜け荷して中国へ行き密貿易したことがばれて近年斬首刑になった(p.223)。
→やっぱりばれてる鹿児島藩の密貿易。なお現在でも昆布の消費量1位は意外にも昆布だし帝国の関西圏ではなく沖縄県なのだが、これはこの時の密貿易の置き土産らしい。
・薩摩から琉球へ行って武道を教えることは厳禁である(p.223)
→沖縄の「空手発祥説」の理由にもされてましたっけ。
・鹿児島藩の制度は、禄高に構わず売り買いをする。ただし家には格式があって、3人扶持の家、10人扶持の家それぞれに決まりがあって、年初の挨拶などは役目の上下では前後に扱いが変わることはないのだが、格式の上下で扱いを分ける。仕事の時には役職で上下が別れる。10人扶持の役をする家の人でも最初は3人扶持ぐらいの役職から始める。一人扶持辺り月々金2歩もらう。10人扶持だったら5両。家老なら60人扶持なので30両。それで人を雇ったりする。家老は30人ぐらい雇うそうだ。(p.223)
→他藩と比べて安月給なのかそれとも高いのか分からない(済みません)。しかし月給の内半分が人件費で飛ぶとは、鹿児島藩の家老は余り実入りの良い仕事ではないかも知れない。
・将軍の代替わりで、必ず目付が薩摩に行って琉球を見物してくると言う。その時「船の調子が悪いから」と申し立てて断るそうだ。それでも良いと強要してきたら、必ず船頭に命令して海に沈めるとか(p.224)
→前述にもあるがガクブル よい子は真似したら駄m(略)
・薩摩の山川港はよい港で、船が壊れるという事故がない。長崎港ができてなかったころ、幕府へ(貿易を)取られないよういろいろと申し立てて断り、中国からの船はここへ来たそうだ。その時はよその藩の人はここへ入れないようにしていた。(p.224)
→またまた薩摩の密貿易談義。山田三川という人は、この後、やはりアイヌとの密貿易で儲けていた松前藩に採用されたこともあるのか、この手のネタにすごく興味があるようです。
・鹿児島の城下の川では1年に5,6人は「水虎」に人が食われると言われる。肥後より「水虎」取りが来て言うには、真の「水虎」は1つで、異種が夥しくいるとか。真の「水虎」は手の指は5本で人間と違わないが、異種は3本指で甲羅があるとか。(この話はシノサキから聞いた)(p.267)
→薩摩怪奇話その弐。文を見る限りでは河童の事かな?
・薩摩で麦のできるころになると、犬が狂うことが毎年ある。それ故恐れてその犬が来ると必ず門を閉じる。目はくらんで見えず、ただ音のする物に食いかかってくる。その犬にかまれると命はない。勇敢な男がいたら棒で叩き、桶に閉じ込め、はたから少しずつ食事を与えると、日数が立つと発狂はなくなり元の犬となるそうだ(この話もシノサキから聞いた)(p.267)
→狂犬病のことだと思うのだが、江戸時代は狂犬病は鹿児島限定だったんだろうか。
・薩摩の英翁候の時、肥後を通るときに鉄砲は切り火縄で熊本城を通過した。そのことは止めたのだが聞き入れずに持ち込んだので、矢狭間を開けて鉄砲の筒口を出し前後の城門を打ったので、駕籠の中の鳥状態になり、困って火を消したのだそうな。(p.270)
→英翁候=島津重豪(栄翁)。「切り火縄」とは、通常火縄銃の縄は長くしてくるくる巻いてあるのに対し、短く切ってすぐ火が付けられる状態になっていること、つまり「臨戦態勢」。熊本藩が切れるのも当たり前かと。やっぱりゴーマンだったのか>重豪ヾ(^^;)
・鹿児島藩の殿様の貧乏は甚だしくひどくなり、借金の貸し主は期日になって集まってきたが、借金は残らずかたを付けますのでと触れ回ったので、さては半分か1/3は受け取ってやろうと各々証文を持って出て来た。20人ばかり役人が揃って役所にいて金箱も多く積んでいた。さて証文をみんな改めて受け取ったが、その中に一人山師がいて「200年払いで」と申し出たので、みんな呆れて帰ってしまった。これで借金取りを免れたそうだ(この話は川ナベから聞いた)(p.278)
→またまた出て来た鹿児島藩の借金踏み倒し話。よっぽど江戸では有名な話だったんでしょうね…
・薩摩の侍はみんな詩歌を好み流行したので、関ヶ原の合戦の時には島津義弘が命令して禁止したことがあるらしい。(この話は篠サキから聞いた)(p.281)
→この話は初耳。実際和歌そらんじてる余裕なんか無くて、もし一首ひねってもそれ書く余裕すらなかったと思われるが…
・岡山の殿様は栄翁公と親しかった。ある時招待されたので中雀門を自ら開けて迎えに出て先に案内していた所大きなおならが出てしまった。栄翁公は腰の扇子を抜いて力一杯尻を打ったので「痛い!」といいながら逃げ込んだ。それから座敷に入り、火鉢に寄りかかって大きな彫り物がしてあるキセルを出して自慢したので、引き取って庭に投げ捨て「大名がこのような物を持つとは汚らわしい」と言い、これで気が済んだとか(この話はシノザキから聞いた)(p.282)
→というか、重豪の私物を投げ捨ててこの後大げんかにならなかった方が不思議(^^;)この岡山の殿様は池田治政と思われる。かなりお茶目な人だったらしく、この次に「ある時岡山の殿様が"近日中に珍しい物を送りますので"と約束し、大長持を使わした。居間でそれを開封したところ、中には布団が入っていた。更にそれを出してみたところ、岡山の殿様がそこから飛び出して、大暴れしたとか」という話も紹介されています。
・西城公が事切れて半時が過ぎて本丸に「急なことですが」と報告されたので、将軍は履き物を履く余裕もなく駆けつけたところ、もはや1時近くも過ぎていたとか。さて、当代が気に入らないことを林も水美も知っていたので押し込めて右大将公の世としようと計っていたが、子どもが親を押し込めるという手段はとれないので、中野石翁の娘・於道の方に申し含めて御台所をはかりごとにかけて「母の命令で、親不孝で不和なので常は病気見舞いは少なく、臨終の時も間に会わないように」と申したという。御病気中もなるべくお見舞いしない方が内意を申し上げるのに都合が良いからである。御台所は賢女だったので、密かに本丸に、林と水美は将軍に利益がないので、西ノ丸に来られないように、と知らせた。それから間者をまわして探ってみると、毒殺と呪詛のことが明らかになったのだ。
 御台所は賢い人で、平常時も西城公がかんしゃくを起こすのを抑えていたので、「二位の尼将軍の勢いがある」といわれ、大いに助けられることが甚だしかったという。
→西城公=徳川家斉。三川がこの話を書いた天保12年閏1月に死去。
 林=林忠英
 水美=水野忠篤(美濃守)、同名の人物が何人かいるようだが、この人は旗本で大御所家斉の側用人である。
 右大将=徳川家定
 於道の方=一般的には「お美代の方」で有名。
 御台所=広大院茂姫(島津重豪の娘)
有名な「お美代の方の将軍乗っ取り事件」のエピソードですが、その当時の一般的な広大院のイメージが知られる貴重なお話かと。
・細川の侍が言うところでは「隣藩では薩摩は実直で嘘がないけど、筑前は嘘が多い。筑前と肥後は同じ50万石だけど向こうは小国だね」(この話は清水から聞いた)
→拙ブログのこの辺の話も参照下さい。
・先年、鹿児島城下にて朱一挺を130文ずつ100匹代にして関所に行った所、大きな武杖を以て威嚇する関吏にこれを見つけられてしまい、しかも振ってみたら音がしたので改めて見たら朱が出て来た。これは鹿児島藩ではご禁制であり、取り上げられてしまった。そして、その関吏が「どれほどで買ったんだ?」と聞くので「200文ずつで買いました」と言ったら、「それは騙されたんだ、かわいそうだが、100文か130文ずつの物だよ」と言って問屋を呼んできて130文ずつ引き取ってくれた。大変感心したよ。それからその問屋へ泊まったんだが、問屋からも朱2挺を選別にもらったんだ(この話は松浦から聞いた)(p.372)
→この松浦って人、逆に関所の役人騙して儲けてない?ヾ(^^;)
・今の福岡藩主は鹿児島藩から来た人、支藩の藩主は土佐藩から来た人。本家は評判が良くなくて支藩の方が評判が良い。それ故「薩摩の馬<<<(越えられない壁)<<<土佐の馬、だよね~」と言われてる(この話は柴山から聞いた)(p.384)
→今の福岡藩主=黒田長溥(島津重豪の息子)、支藩藩主=黒田長元(山内豊策の息子) 長溥は父譲りの「蘭癖大名」として有名だが、同時代人には評判が良くなかったようだ。ただ、この情報源の柴山という人の親戚が支藩(秋月藩)の藩士だったよう(p.382)なので情報が歪曲されてる可能性もあり。
・薩摩は国を以て城とする見識なので「真の城」というのがない。万が一の時は桜島を本城とする覚悟である。国中に「都城」という物が102個所もあり、1個所に侍が50軒ずつ住んでいる。その中には7,80軒に増えてる物もあるとか。その士分の者はみな百姓を譜代の家来として2人3人または5人6人を抱えている。
 また、102の「都城」が今は増えて250個所もあるというとか、いかがなもんだろうか。(p.384)
→よその人から見た外城制度。「外城」は「とじょう」というのはこのブログを見ている人には有名な話だが、三川は読みをそのまま漢字にしてしまったようだ。実は鹿児島藩内にはご存じのように「都城(みやこのじょう)」というそのまんまの地名もあるのでややこしいことこの上ない(^^;)
・薩摩の人が言うには「他の国には風俗の流行があるけど、薩摩にはない。しかし、鹿児島には流行が存在して、これは栄翁候の時に上方より芸妓が多くやってきて、さらに家老の内に『土地繁昌奉行』と呼ばれた通人にしてしゃれた家老がいたからである。市中を歩くと他の侍が妓楼から呼び込みされると言うこともあった。こんな風に士風は一変してしまったが、「都城」は決してそんな流行に染まらない。最も城下の近くにある「都城」には少々染まってしまったところもあったが、栄翁候が亡くなってそんな事を辞めたので、また「都城」の風がうつってきて以前の姿に戻ったよ(この話も柴山から聞いた)(p.384)
→島津重豪の風俗改善運動?に関するお話。三川の周辺では余り重豪のど派手バブリーなやり方は歓迎されてなかったようです。当たり前か。三川儒学者だし、お友達もその系統の人が多いから。
・鹿児島藩の領内では米は60万石ばかりしか取れないらしい。年に肥後から10万石ずつ買い入れてるとか(この話は柴山から聞いた)
 ただし羽県令がいうところでは、この「10万石を買い込んでいる」という話は言いすぎであるという。外国に抜け売りしているのかもとも言うが、抜け荷しているようにも見えないしなあ。(p.396)
→いや実際は30万石ちょいしか取れないとか言う噂も…ともかく公式高「72万石」は表向きというのは結構知っている人にはばれていたようだ。でも熊本から輸入している不足分もかなり盛過ぎという補足もあるし…謎な鹿児島藩の米流通。
・東照公の3大失策と言えば「鹿児島藩に琉球を攻めさせたこと」「佐竹に秋田を与えたこと」(以下欠文)(p.429)
→後半が何故か消されていたのが残念なのだが、三川が東照公こと徳川家康の3大失敗のうちのひとつとして島津家の琉球出兵を挙げているのが興味深いです。どんな理由だったんだろうか。
・豊国廟の修理をするので、豊臣温故の大名より献金があるかと思ったら誰も出さず、ただ島津家だけが出した(p。430)
→興味深い話なのだが、いつ頃の話かが明記されてないのが残念。この直後に木下家(北政所の実家)の大坂の陣時の処遇の話が出て来ているので、大坂の陣の直前ぐらいのことなのかな。



目に止まった話はこの辺です。細かい話は見落としているかと思いますが、御了承下さい<(_ _)>

現在の薩摩武士イメージとか、江戸時代後期にはデマとかいろいろ混じってヾ(^^;)がっちり固まってたのかな~と感じました。
あと密貿易で儲けてるという話は派手にバレバレなんですが(^^;)こんなにばれてるところをみると、もう開き直って堂々と密貿易してたのかも知れませんな>鹿児島藩ヾ(^^;)

次回は山田三川が記した島津氏以外の雑記についてご紹介します。

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