拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
「惟新公御自記」は惟新公こと島津義弘が最晩年(文中では80歳過ぎ)のころに自ら書いたという回想録である。本人が自ら書いたと言うことで貴重な記録ではあるのだ が、 ちょい手前味噌な所もあるのでヾ(^^;)(例えば「耳川の合戦(高城川合戦)」記述に於ける伊集院忠棟の記述に嘘が交えてあるとか)その点は注意が必要な史料かと思う。
ちなみに本人も書いた(「予の武功の趣略(おおむね)これを記するもの也」)ように「自分の合戦記録」を綴ることが目的のため、記述されているのは天文22年(1533年)の初陣から慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦まで。この後の琉球侵攻などは出陣はしてないので記述範囲には入っていない。
表題の箇所は、文章の一番最後。
「家久室」とか言う表現じゃないんだな。この文が書かれた頃には島津亀寿は既に鹿児島城を追放され、国分城に別居させられていた。義弘的に見ても、この時点では亀寿は家久の正室ではなかったということと理解していいのかな。
しかし、その後に続く「家久の慈母」って表現が微妙。この時代「我が妻」とか言う表現は一般的じゃないのかもね。
ちなみに本人も書いた(「予の武功の趣略(おおむね)これを記するもの也」)ように「自分の合戦記録」を綴ることが目的のため、記述されているのは天文22年(1533年)の初陣から慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦まで。この後の琉球侵攻などは出陣はしてないので記述範囲には入っていない。
表題の箇所は、文章の一番最後。
而も大坂に於て質人と為りて御座ある龍伯公の御息女並に家久の慈母、其の外薩摩の男女残らず引列れ帰国せしめ畢わぬ。
「家久室」とか言う表現じゃないんだな。この文が書かれた頃には島津亀寿は既に鹿児島城を追放され、国分城に別居させられていた。義弘的に見ても、この時点では亀寿は家久の正室ではなかったということと理解していいのかな。
しかし、その後に続く「家久の慈母」って表現が微妙。この時代「我が妻」とか言う表現は一般的じゃないのかもね。
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