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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
「元親記」ですが、タイトル見たら分かりますが、長曽我部元親の生涯をかつて仕えていた家臣(長曽我部改易後はその後入部した山内に転職した)・高島正重が、元親の33回忌法要の時にまとめた物だそうです。

間接的に拙HPに関係ある話で気になる記述が。
元親はかつて祖父が恩義を受けた土佐一条氏を土佐から追放するのですが、そのとき追放したのは当主の一条兼定のみで、その息子(一条内政)には娘を嫁がせて傀儡の当主としたのは、戦国時代が好きな人なら聞いたことがある話かと思います。
「元親記」ではこの内政と元親娘の間に一男一女が生まれたとしているのです。
幡多落去之事 (前略)扨(さ)てその後、大津一条殿(=一条内政)、元親契約の如く、息女祝言ありて、若君一人、姫君一人出来(しゅったい)す。(後略)
大津の城に御座有し一条殿を流さるる事 (前略)御台所と二人の若君・姫君は前かどに岡豊の城へ御座成りしを、直ちに留め置きて御使を立てられたり。(後略)
一男は最後の土佐一条家当主・一条政親で間違いないでしょうが、一女って・・・初耳なんだが。 もしかしたら徳川将軍家に仕えた「按察使局」はこの内政の娘の可能性もあるのか?

「元親記」によると、後に内政は謀反の疑いをかけられ元親によって伊予国に追放され、元親娘とその2人の子は元親に引き取られたと書いてありますが、その後の消息には全く触れておらず不明。

・・・
しかし、この後に読んだ「長元物語」では最後に元親の家族の一覧を箇条書きで詳しく書いているのだが、そこには一条内政夫妻の子供は「一男」しか書いてないなぁ。
元親公言行 一.元親公に男子五人、女子一人(ママ)、都(すべ)て十人。嫡子をば弥三郎信親と云ふ。豊後国大方郡(ママ、大分郡)にて天正十四年十月二十二日(ママ、十二月十二日)に嶋津と合戦の時討死なり。女子一人盛親の正室なり。 (中略) 一.女子一人、一条殿御子息内政公の内室なり。男子一人、之ある所に、内政追出しの後病死なり。
ちなみに「長元物語」は元親に直接仕えていた立石正賀(長曽我部改易後は細川家にとらばーゆ)という人の覚え書きで、成立したのは「元親記」よりちょっと後のようです。また、問題の「元親公言行」の章は原本にはなく、後からの加筆という説も。
猶後考を期す。

 「元親記」「長元物語」ほか四国の戦国時代に関する文献の読み下し文を所収。長曽我部氏は滅亡したためか、良質な史料が少ないらしい。

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