○廿二日島津義久入道龍伯卒す。この入道は 豐後前司忠久が後胤。父は陸奥守貴久といふ。世々薩摩の鹿兒島に住す。室町將軍義輝より諱の字を授られ義久と稱し。爵ゆりて修理夫夫に任ず。天正九年五月 三日從四位下にのぼる。後に守護職を弟兵庫頭義弘にゆづる。入道が代に大隅。日向。筑前。筑後。肥前。肥後。豐前まで打したがへ。大友宗麟を打亡し豐後國 をもあはせんとす。豐臣關白天下の兵權を握らるゝに及び。兼て九州征伐の事思ひ立れしに。大友伊東等がすゝめければ。天正十四年仙石。長曾我部。大友等島 津退治として豐後國に向ひ一戰に負軍せしかば。十五年の春關白みづから畿內。南海。北陸等の軍勢を引つれ鎭西に發向し。伊東を案內として筑前筑後をへて其 五月薩摩に亂入し。鹿兒島に押寄らる。今は義久も防ぎ兼剃髮染衣の姿となり關白の本陣に參る。關白大によ喜ばれ大隅薩摩兩國安堵の事仰くだされ。一族家人 等にも對面有て九州二島ことごとく平均す。この後大坂に參り。殿下の命令にしたがひ軍事をつとめしかば。十六年七月五日在京料一萬石をたまひ。三位法印に なさる。文祿の朝鮮軍には。弟兵庫頭義弘幷に其子又八郞忠恒押わたり。慶長三年泗川の戰に明兵の多勢を打やぶり。我邦の軍を全くして歸朝しければ。 大 御所その勳功の賞として。大坂の奉行等とはからせ給ひ。義弘には所領五萬石くはへられ。正宗の御刀を給ふ。しかるに五年の秋關原の戰に。義弘石田が方人し て散々に打なされ。希有にまぬがれ國に迯かへる。入道福島正則につきてうたへけるは。義久 內府公に二心をいだかず。弟義弘が所行以の外奇怪のいたりな り。義弘國に迯かへり後對面をゆるさず。櫻島にをしこめ置ぬ。御下知を待て誅すべきなりと申により。かねて薩摩征伐にむかひし加藤黑田等をばめしかへさ る。入道猶もみづから大坂にまいり。陳謝せむと思へど。病にをかされしかば。家人鎌田出雲をのぼせ樣々陳謝す。七年四月十一日寬宥の御沙汰もて。本領安堵 の御教書を入道に賜ふ。入道大に悅び忠恒を伏見にまいらせ謝し奉る。十一年六月十七日忠恒御名の字たまはり家久とあらため。十四年家久琉珠を討て中山王を 生取しかば。 大御所より。入道をはじめ義弘家久へも御書たまはり褒せらる。入道齡つもりて七十九。けふ終をとりしなり。江戶より揖斐與右衛門政景薩州 につかひし。香火料銀千枚たまひしとぞ。(藩翰譜備考。寬永系圖。藩翰譜。寬政重修譜。)
「徳川実記」台徳院殿御実記
http://www.j-texts.com/jikki/taitoku.html
ちなみに、大名の卒記事の中ではかなり長い方だと思います>義久死亡記事
拙ブログ関連記事 こちら
確かに読んでみると、新聞に出てくる訃報そっくりですね。
>伊東が案内
もうこれはすごくむかついたようで(爆)その前からもいろいろと遺恨のあった両者ですから、その後も様々なトラブルが相次ぎ、最後には「参勤交代がかち合わないように」という幕命が出されたくらい仲悪かったようです。
>三位法印
伊東義祐は従三位任官後に出家したので「三位入道」といわれたということのようですね。島津義久の場合は今回挙げた史料によると三位+法印を同時にもらったという事のようです。ちなみにご存じとは思いますが、法印とは出家者に与えられる位の一つです。
伊東氏のちゃんとした史料を見ずに、検索だけで書いてるので余り当てにしないでくださいね。
で、同席した場合の席順ですか?うーむ(^^;)