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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
「伯母様(おばさま)」というバス停もあります。神奈川県伊勢原市にある神奈川中央交通のバス停で、「伯母様」は地名でもあるのですが、一説には室町時代に神奈川県一帯を治めていた北条氏康の家臣、布施弾正左衛門康則の「おば」である梅林理香大姉のことだそう。彼女がこの地を所領していたことから、文字通り本物の伯母をルーツとする地名が生まれ、バス停の近くには伯母様橋という橋もあります。
https://trafficnews.jp/post/81054
ほお~ これは興味深いお話。
小田原北条氏には女地頭が存在していたのか-ヾ(^^;)

拙ブログのネタ元・島津氏では似たような事例を探したが…思いあたらないなあ(´・ω・`)
※女性が領地を持っていた例は多数あります。亀寿とか



ところで。
だいぶ大昔のネタでこんな事を書いていた私
藤原氏の氏寺・興福寺の工事が中断しており、講堂がまだ無いという状態でした。彼女は藤原北家の財力を尽くして講堂を造ることを決意します。
が、仏像が出来た時点で牟漏女王は亡くなりました。あとに残った北殿をはじめとする遺児が残りの工事を完成させた…『興福寺縁起』はそう伝えております。
平城京遷都1300年企画 「橘三千代とその娘」第11回
ところが、検索していてどうもこの話は間違いと言うことに気が付く。
本当に済みません…。
訂正ついでに再考してみました。
ご興味のある方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ。


『興福寺縁起』(藤原良相著、平安初期成立)では実際にはこう書いてあるようだ。

一 講堂一基長十四条二尺。広六条二尺。木端別皆用裁金銅餝。 近廊一條長二条八尺。広一条六尺。 不空羂索観自在菩薩一躯高一条□尺。天平十七年乙酉正月正三位牟漏女王寝膳背例。仍不遂願遷化。爰孝子ノ造之。
右従二位藤原夫人。参議正四位下民部卿藤原朝臣。以天平十八年歳事丙戌正月為先考先妣所奉造也。

『大日本仏教全書』所収「諸事縁起集(護国寺本)」”興福寺縁起”より
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952822/13
ざっと意訳すると
「講堂と附属の廊下と(中に納めた)不空羂索観自在菩薩<牟漏女王が天平17年正月に病気で亡くなったために完成できなかったので、子供がこれをつくった。> 右は従二位藤原夫人と参議で正四位下民部卿の藤原某が天平18年の正月に故・藤原房前と故・牟漏女王のために作った物である」
というところかと。
「従二位藤原夫人」は房前と牟漏女王の娘で、天平9年に聖武天皇の后となった通称“北殿”でまちがいないんだが、もう一人の「参議正四位下民部卿藤原朝臣」というのが、この当時の北家の男子に該当者がいないのである。北家の男子たちの天平18年正月時点での状況をあげてみる。
・長男 鳥飼:天平9年までに既に死去か
・次男 永手:従五位下、天平9年頃から絶賛干され中ヾ(--;)
・三男 八束:従四位下右衛士督兼式部大輔
・四男 清河:正五位上
・五男 魚名:不明(たぶん正六位上) 
・六男 千尋:不明(おそらく正六位上か未成人のため未任官)
・七男 楓麻呂:不明(おそらく成人前で未任官)
一番位が上の八束でも正四位下に届いてない…

ところが、他の藤原氏を見るとかなりあやしい人物がいる。
藤原南家の藤原仲麻呂は、天平13年から民部卿に就任し、天平18年の正月時点で参議正四位上。官位の「上」と「下」をうっかり書き間違えるのはよくある話で(なにしろ正史じゃなくて寺社縁起だしw)、この謎の「参議正四位下民部卿藤原朝臣」は藤原仲麻呂と見て間違いないだろう。
(※『興福寺流記』では「或記云(中略)正四位下民部卿藤原朝臣私云勘仲丸改名桿」と、”正四位下民部卿藤原朝臣”=藤原仲麻呂と明言までしている)
しかし、何で南家の藤原仲麻呂が北家の私的な行事にしゃしゃり出てるのだ?

実は藤原仲麻呂の妻には藤原房前の娘がいた。後に高級女官となり、後宮を支配していたらしい藤原袁比良(ふじわらのおひら、「袁比良女」、「宇比良古」とも)という。
藤原仲麻呂の父・武智麻呂と房前は晩年主導権を争った物か不仲になったのではと推測されているが、なぜか房前は自分の娘のうち一人を武智麻呂の長男・豊成に、もう一人の娘・袁比良を次男・仲麻呂と結婚させている。つまり仲麻呂は房前の婿になっていた。
にしても、南家の仲麻呂が北家創始者である房前と牟漏女王の菩提を弔う行事を主催しているような書き方になっており、北家に多くの男子がいる中、この仲麻呂の行動はとても不可解である。

本来ならこの当時の北家の当主である藤原永手がこの手の行事を主催しなければいけないのだが、長期謹慎中で、こういう表だった行事を主催できなかった。
この頃の北家を実際に差配していたのは弟の八束で、事実、牟漏女王や北殿の法隆寺への寄進などに深く関わっているという(参照「聖徳太子から光明皇后へ−太子信仰の系譜」 『国宝と歴史の旅 (1) (朝日百科日本の国宝別冊)』所収)。
ここから考えるに、本来この講堂建築に関わるのは八束だったはずである。

ところが、この中に割り込んできたのが仲麻呂である。
と言うか、もしかしたら仲麻呂の妻・袁比良がけしかけたのかも知れない。
「うちの実家の男たち随分若い(※仲麻呂と永手で8歳差、八束とは9歳差がある)からさ~、あなたが手伝っちゃいなよ~」
…と言ったかどうかは分かりませんが(^^;)、ともかく本来の当主・永手が表に立てない複雑な状況の中に無理矢理割り込んで、記念すべき北家の追悼行事を差配してしまった。そして、まるで自分が北家の当主のように振る舞ったんでしょう。
ここで本来この講堂建立の願主である北殿が止めれば良かったんでしょうが、結果としては止められませんでした。仲麻呂より位(仲麻呂正四位上、北殿従二位)も地位(臣下の仲麻呂、天皇妃の北殿)も高いはずの北殿が止められなかった背景ですが、恐らく仲麻呂妻・袁比良は北殿の姉にあたり、強く出られなかったのではと考えられます。

…こうして面目をぶっつぶされた北家の男子(特に永手と八束)が仲麻呂に対して良い感情は持たないのは当然かと。
一方の仲麻呂は北家に口出すきっかけができたからか、この後の北家をぐちゃぐちゃにかき回し、利用していったようです。
天平期に聖武天皇気に入りだった八束を押さえるため、天平勝宝以降、逼塞していた永手を重用、急速に官位もあげてやります。永手はこの後、特に天平宝字元年に発覚した橘奈良麻呂の変では大活躍するのですが、奈良麻呂の変収束後「特に貢献のあった者」として叙位に預かったのは、活躍した永手ではなく、なんとこの時全然動静が分からない八束でした。八束を押さえるために永手の官位をあげて重用した仲麻呂でしたが、その結果、橘奈良麻呂の変時点の永手の官位は従三位。ここで官位を上げたら正三位になってしまい、当時従二位だった自分とわずか1階差に接近することになり、大きなライバルをつくることになってしまいます。なので弟の八束の官位を上げてみたと(ちなみにこの時正四位下に昇格)。この結果に永手は唖然としたことでしょう。この後しばらく永手は今までの急速な出世が嘘のように動静が分からなくなってしまいます。
その後八束(天平宝字頃に「真楯」と改名)とは何となーくやっていたようなのですが、永手、八束の同母弟・千尋(天平宝字頃「御楯」と改名)が成長して自分の娘婿になると、過去に前掲のようなわだかまりのある八束(真楯)はやっぱり使いづらかったのか、天平宝字4年(760年)、太宰帥(太宰府長官)にして地方に飛ばしてしまいます。
千尋(御楯)は仲麻呂の元で重職を勤め、あっという間に永手・八束(真楯)と官位も並びますが、橘奈良麻呂の変から8年後の天平宝字8年(764年)にあっけなく死んでしまいます。

その年の秋に、仲麻呂は反乱を起こしますが、わずか1週間で敗死することとなります。
この時の朝廷で久々に抜擢され采配をふるっていた一人が永手で、追討軍の主力を務めていた授刀衛の長官だったのが八束(真楯)でした。
なお、この仲麻呂の乱では仲麻呂を始めとして永手・八束(真楯)の姉?である袁比良が産んだ子供たちも全員処刑されたのですが、彼らを永手・八束(真楯)が助命したとか言う形跡は全くありません。まあ、乱の内容が内容なんで助命したところで助からなかったとは思うのですが、助命すらしなかったところに永手・八束(真楯)が仲麻呂・袁比良夫妻に持っていたわだかまりが垣間見えるような見えないような。



拙ブログ関連ネタ
藤原永手の空白の12年 

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北家の兄弟姉妹とその母のこと
初コメントです。いきなり失礼します。
北家好き人間ですが、ずっと疑問に思っていたことがあります。牟漏女王の生年は、697年頃というのが通説らしいですが(永手を彼女の最初の子として、17才前後で産んだ計算)、どうも彼女の生年はもっと早くないでしょうか?
仲麻呂の妻の袁比良や、その姉と思われる豊成室も牟漏女王の子で、しかも永手より5才前後年上なのでは?袁比良の生母が牟漏女王なら、仲麻呂が北家の行事に、北夫人と共に堂々と顔を出すのも分からなくはないような気がします。房前と牟漏女王は妻の両親ですし、北夫人は妻の同母妹ということになるので。
房前と素性知れない妻との娘が、藤原氏の中でも特に身分の高い南家の長男と次男に嫁ぐというのも考え難く、袁比良の女官としての出世ぶりは牟漏女王の権威を引き継いだようにも見えます。袁比良達が5才前後は永手より年上というのは、彼女達の子供と、そのおじにあたる永手の年齢差が一回り~15才程度しかないことからの推測です。
牟漏女王は謎が多い人ですが、生年は697年よりかなり遡るのではないか?と思いました。夫の房前や兄の諸兄とそんなには年が離れていないような。牟漏女王は美努王ではなく不比等の子という俗説も成立しないように思います。
こちらの記事を読んでつくづく、永手、八束はおそらくずっと仲麻呂のことを内心では良く思っていなかったが、姉が存命のうちは遠慮があって逆らえなかったんだろうなと思いました。
他のいくつかの記事も面白く読ませていただきました。不都合がなければ、これからも時々覗かせてもらうかもしれません。
耕運機 2018/09/07(Fri)20:38:02 編集
牟漏女王の年齢について
耕運機さま、コメントありがとうございます。

ご存じかと思いますが、牟漏女王が藤原房前との間に産んだ子供で確実なのは永手、八束(真楯)、千尋(御楯)、北殿の4人だけなのです。男子3名は『尊卑分脈』から、北殿は「正倉院文書」にある北殿の写経関係の文書にある「見在内親郡主」の“内親郡主”が牟漏女王を指すと推測されていることから母が牟漏女王と考えられます。
藤原豊成の妻、仲麻呂の妻(袁比良)の母については書いてある史料が全く存在しないので、何とも言い難いところです。
ただ、今回の拙記事の推測が当たっているとすると、耕運機様の推定通り袁比良の母については牟漏女王の可能性が高くなってくるかと思います。そうなると牟漏女王の年齢は通説よりは5歳程度上かも知れませんね。
房前の長男・鳥養(生母は春日老女)の推定生年が慶雲年間(704~708)なのに次男・永手の生年が714年で、最大10歳最小5歳空くのもなかなか微妙な間隔かな、と感じます。

ところで
>牟漏女王は美努王ではなく不比等の子という俗説
…それは拙ブログで書いていたネタでした(爆)。元ネタは黛敏道氏の『古代史を飾る女人像』だったような…うろ覚えで済みません(汗)

今後とも拙ブログを宜しくお願い致します。
ばんない URL 2018/09/08(Sat)18:49:32 編集
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