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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前の話はこちらです。
ご興味のある方は「続きはこちら」をクリック御願い致します。
では。
※なお、一部お見苦しい点がありますが、20年近く前にネットにupされた物と言うことで、御了承お願い申し上げます<(_ _)>


拍手[2回]



ところが、「石上志斐て(注:「て」は「氏」の下に「一」と書く)」なる女
性は石上氏の系図にもでてこない上に、『続日本紀』など見る限りでは聖武天
皇の正式のお后でもないらしい人物だったのです。
*参考:聖武天皇后妃図************************
 皇后(定員1名):藤原光明子(父:藤原不比等、母:県犬養橘三千代)
 妃(定員2名):なし
 夫人(定員4名):藤原氏(欠名、父:藤原武智麻呂)
          藤原氏(欠名、父:藤原房前、母:牟漏女王)
          橘古那可智(父:橘佐為<橘諸兄の弟>)
          県犬養広刀自(父:県犬養唐)
 嬪(定員4名):なし
***********************************
単に記録から漏れたとも考えられますが、
もし「石上志斐て」なる女性が、石上氏の直系につながる高貴な女性ならば、
聖武天皇の正式のお后の一人として上記のリストに入ってもおかしくないと考
えられます。
となると、この男。非常に怪しい!!!

ところが、『続日本紀』を見ると、この申し出を受けた時の政府はこの男の言
い分をいったんは聞いたようなのです。
つまり、「この男の言うことには正しいことがある」と判断したのでは?と考
えられるのです。それは、この男が
「私の母親は”石上朝臣志斐て”である」
と主張したことにあるのではないか?と、私は考えています。

前に述べたように、どうも「石上志斐て」なる女性は石上氏の直系出身ではな
い上に、聖武天皇の正式の妃でもなかったと考えられます。
しかし、聖武天皇は、どうもいろんな女性に手を出していたようです(*-_-*)。
『続日本紀』天平宝字2年(758年)条に
「八代女王は聖武天皇の寵愛を受けていたにもかかわらず、その志を裏切った
 ので位記(注:位を示す木の立て札)を取り上げることにする」
と書かれています。彼女は『万葉集』4-626などにも記録が残されている
のでわかるのですが、聖武天皇の元で女官を務めていたのですが、どうも橘奈
良麻呂に味方したようなのです。そのために「橘奈良麻呂の乱」後「位記を取
り上げる」=位を召し上げられる=収入が無くなる、というかなりの重罰を食
らったようなのです。
話がまた脱線しましたが、このように、八代女王は聖武天皇の正式の妃とはな
ってなかったようですが、「寵愛を受けた」と書かれていることから推測して、
聖武の愛人の一人だったのでは?と考えられます。

朝廷には女官がわんさかいますから、寵愛を受けた女性が八代女王一人だった
とは思いがたく、他にもこういう愛人女官(^^;)がごろごろしていたのではな
いか?ということは容易に考えられます。
おそらくこういう女官の一人に「石上志斐て」がいたのではないでしょうか。
女官ともなれば、役所の人事の記録に彼女の名前が残っていることが考えられ、
この自称「聖武天皇の隠し子」の言い分ももっともなこと、と役人が考えたこ
とは十分考えられます。


ところが『続日本紀』では、この後についてこう書いています。
「問いただしてみると果たして詐欺だったことがわかったので、この男を遠流
 にした」
要は、嘘だった、と書いているのです。
しかし、単なるうそつきと言うだけならばこの男に「遠流」という厳罰を下す
物でしょうか。「遠流」は朝廷やその政策を非難した人が主に受ける罪です。

この「聖武天皇隠し子事件」が起こる前年、和気王(わけおう)という人がや
はり称徳天皇に対して反乱を起こそうとした物の、実行前に発覚、遠流(護送
途中で虐殺)になるという事件がありました。この和気王なる人物は、実は称
徳天皇が排斥した淳仁天皇の甥に当たる人物です。
***********************************
         |―三原王―和気王
 舎人親王―|
         |―大炊王(淳仁天皇)
***********************************
和気王は「藤原仲麻呂の乱」ではめざとく称徳天皇側に付いたために生き延び
ましたが、彼以外の舎人親王の子孫たちは淳仁天皇に連座し、大半が流罪とな
っています。
そのために将来は自分の身に危険が及ぶのを感じ、称徳天皇・道鏡をまじない
で呪い殺そうとする”反乱”を行ったのでした。
しかし、こんなちゃっちい「反乱」ではありましたが、和気王には何人かの中
級貴族が心を寄せていたようで、その貴族達も後に左遷されて惨い殺され方を
しています。
要は、道鏡を天皇にしようという称徳天皇に反感を持つ人は非常に多く、また
称徳以外の天皇の血筋に期待する人が身分を問わず多かったことをこの「和気
王の反乱」事件は示しています。

こういった「次の天皇を誰に?」という不安定な時期に、「聖武天皇の隠し子」
は名乗りを上げたのです。おそらくこの男は「あわよくば次の天皇には俺が」
という思いもあったでしょうし、「石上志斐て」が聖武の”お手つき女官”だ
った可能性が高いことが推測されますから、実際に「聖武天皇の御落胤」だっ
た可能性は十分にあります。
しかし、このような男性は、「道鏡を天皇にしよう」と考える称徳天皇にとっ
ては邪魔者以外の何者でもなかったのではないでしょうか。
はっきり言って天皇家とは何の縁もなく、単なる「称徳天皇の気に入り」と言
うだけの道鏡が次の天皇に滑り込むには、称徳天皇に近い血族が一人でも減っ
た方が
(もう、天皇に近い血統を持つ皇位にふさわしい人もいないし、しゃーないか)
と、無理矢理にでも周囲の合意を得やすい物です。それが、今になって「聖武
天皇の息子」がでてきたとなれば、道鏡のかなり強力なライバルがでてきたこ
とになります。称徳天皇は(やれやれ、これで次の天皇位を渡すにふさわしい
人物がでてきた)と思うどころか、この男に自分の構想を破壊されるのでは?
という”恐怖”を感じたことでしょう。

幸いなことに???称徳天皇はこの時一番の権力者ですから、この男の言うこ
とを「嘘八百である」と決めつける事はたやすいことだったでしょう。
しかし、彼女は
(もしかしたらこの男を担ぎ出してくる不満を持つ貴族がいるのではないか)
と、前年の「和気王の反乱」からそう連想したことが容易に想像できます。そ
して称徳は、この”自称”「聖武天皇の息子」が容易に平城京に近づけないよ
う「遠流」という処罰を下したのではないか?と私は考えるのであります。
(完)



何しろ道鏡というのはスキャンダラスな部分がある人物でして(実際もそうだったかどうか分からないけど)、そのため、私も何回かネタにしていたようです(^^;)。
今回はここまでと言うことで、お開き。
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