忍者ブログ
拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

前の話はこちら 



道鏡ネタでこんな話も書いてました。今から17年前。え?そんな経つのかシクシク
と言う事でご興味のある方は「続きはこちら」をクリックプリーズ
※なお、一部お見苦しい点もありますが、何しろ17年前の過去ログですのでご容赦お願いします(^^;)
 Web上での画像upとか技術的にいろいろ作業が難しい時代だったのですよ…



拍手[2回]



聖武天皇は756年(天平勝宝8年)に56歳でなくなります。皆様ご存じだ
と思いますが、聖武天皇には二人の皇子がいた物の、二人とも夭折し、聖武天
皇が亡くなったときには跡継ぎとなる皇子がいない状態でした。
***********************************
 光明皇后(藤原光明子)
  | |――阿部内親王(=孝謙天皇、739年立太子)
  |―|
  | |――基親王(728年死亡 享年2歳)
 聖武天皇
  |――――安積親王(744年死亡 享年17歳)
 県犬養広刀自
***********************************
そのため、上の系図でも書きましたように、光明皇后との間に生まれた阿部内
親王を早くから「皇太子」とし、自分の死後の混乱を避けようとしました。
が、何しろ古くから「女帝」はいても、「女性の皇太子」というのは前例が無
く、周囲の反感は非常に高かったようです。例えば、参議の一人だった橘奈良
麻呂(このとき左大臣だった橘諸兄の息子)は、
「女の皇太子なんか認められるか!」
とばかり、他の皇子を天皇にするべく、聖武天皇が亡くなるより前から計画を
練っていたようです。ちなみに橘奈良麻呂は聖武天皇が死んだ直後にこの計画
を実行しますが、仲間割れから発覚し、関係者の大半が自殺・処刑されると言
う結果に終わります(757年 橘奈良麻呂の変)。

その後、阿部内親王即位後に、光明皇后とその甥である藤原仲麻呂が、天武天
皇の孫かつ舎人親王の息子という大炊王を皇太子にごり押しし、さらにこの大
炊王が聖武天皇の死後約一年で即位します(淳仁天皇)。
しかし、光明皇后の死後は藤原仲麻呂と阿部内親王(孝謙天皇)の仲が悪くな
り、ついに764年(天平宝字8年)、藤原仲麻呂は圧力を強める孝謙”元”
天皇に対して反乱を起こし、その結果敗死します。

こうして、隠退していた孝謙”元”天皇はじゃまな淳仁天皇を淡路島に島流し
にした後に再び即位します。後に「称徳天皇」と言われる天皇の誕生です。
このとき、おそらく彼女は自分の愛人?と思われるあやしげな僧侶・道鏡を自
分の後に天皇にしようと考えていたようですが、これはかつて称徳天皇が「前
代未聞の女性の皇太子」になったこと以上に反対が大きかったようです。

769年(神護景雲3年)に宇佐神宮(現在の大分県宇佐市にある神社)が
「道鏡を天皇にするように」という神託を下したときに、称徳天皇は自分の一
番の腹心である和気清麻呂を宇佐神宮に派遣しています。
しかし都に帰った和気清麻呂は
「宇佐神宮の神は”道鏡ごときを天皇にできるか”とお告げした」
と報告しました。変な処罰が下されたのはその後です。称徳天皇の信頼あつか
ったはずの和気清麻呂が、何故か称徳の怒りを買って遠流となってしまいます。
この不思議な事件は、
称徳天皇が道鏡を天皇にしようとあらゆる手段を使って画策していたこと、
しかし「道鏡天皇」という作戦は、一番の腹心であった和気清麻呂にすら嫌わ
れるほど周囲には反発が高かったこと
を教えてくれます。


…と、ここまでが実は前置きでして(^^;)
ここからが表題の「聖武天皇隠し子事件」の始まり始まり。

時の天皇・称徳が
(何とかして我が愛人・道鏡を天皇にしたい物だ)
と考え、その周囲の人たちは
(あんなエロぼーず(^^;)の下で使われるなんてとんでもない!なんか他に道
 はないのか)
と考えていた頃のお話です。
766年(天平神護2年)4月29日、なんと
「吾こそは聖武天皇の最後の皇子だ!」
と名乗るとんでもない男が登場したのです!
残念ながらこの男の名前は史書に記録無く不明。ただし、彼の母親の名前は
「石上朝臣志斐て」(注:「て」は「氏」の下に「一」と書く)
と判明しています。
石上氏と言えば、奈良時代初期には左大臣を輩出したほどの名族で、その前身
は物部氏でした。この当時は左大臣・石上麻呂の孫に当たる石上宅嗣という人
物が石上氏の氏上(うじのかみ・氏の総代)でありました。この宅嗣という人
物は大変な勉強家であり、また性格のよい人物だったと『続日本紀』に書かれ
ています。

…脱線した(^^;)。
ところが、確かに石上氏はこのような名家ではありますが、実は「志斐て」な
る女性は石上氏の系図にもでてこない上に、『続日本紀』など見る限りでは聖
武天皇の正式のお后でもないらしい人物だったのです!



後編に続く。
PR
Comment
name 
title 
color 
mail 
URL
comment 
pass    Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
最新コメント
[09/22 書き人知らず]
[09/22 大嶋昌治]
[06/28 Albertbaw]
[05/19 春山]
[05/06 桐野作人]
最新トラックバック
ブログ内検索
プロフィール
HN:
ばんない
性別:
非公開
自己紹介:
初めての方はこちらの説明をお読み下さい。リンク・引用の注意もあります。

プロフ詳細はこの辺とかこの辺とか
カウンター
バーコード
アクセス解析
P R
Template by Crow's nest 忍者ブログ [PR]