拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
さて、牟漏女王と藤原房前が結婚して3年経った養老元年(716年)、藤原房前は前代未聞の地位につきます。「朝政への参議」を許されたのです。
別に、「朝政への参議」自体はそれまでも何人かが許されております。
が!許されるのにはまず条件があって
1)地方出身の豪族で、有能でありながら令制に定められた役職に就けにくい人
2)中央出身の豪族で、令制の適当な役職が無くて、かつ、朝政に参議している同族がいないこと
に当てはまる必要があったと考えられております。
ところが、藤原房前は「地方の豪族」でもないし、しかも父・藤原不比等が右大臣として健在なのですから、既に「朝政に参議している同族がいる」という状態なのです。つまり…掟破り(^^;)。
まず、新興貴族・藤原氏(この時点で藤原氏の勢力は、実は不比等とその息子の合わせて5人だけであった)の勢力を高めようとする藤原不比等の意志がありました。
しかし、自分が生きている間は、自分の息子達を有力な役職に就けられない…。
そこで、律令に規定が無く、しかも政治に参画できる「朝政参議」という仕事に目を付けたわけです。
が、では何故に不比等は長男の藤原武智麻呂でなく、次男の藤原房前を「朝政参議」にしたのでありましょう?
瀧波貞子氏などはこう言っております。
「橘三千代が婿かわいさに、元明太上天皇にお願いして房前をごり押ししたのだ!」
…じゃあ、どうして実子の葛城王(後の橘諸兄)を「朝政参議」に推薦しなかったのでしょうねえ?!という疑問がわいてきます。
これは、やはり上記の条件2)をカバーするためでしょう。
この後、藤原房前の子孫は「北家」を名乗るようになりますが、おそらく、房前が「朝政参議」を拝命したときに、他の貴族達から不満が出た場合、
「なーにおっしゃってられるんですか。私は分家して「北家」になったから条件的には問題ないんですよー(^_^)」
…と、言い訳のネタに使った所からきたのではないでしょうか?
ともかく、律令に定められた役職を持たないのに、実権のある「黒幕の男」?藤原房前の誕生であります。
おっと、今回のヒロインを忘れておりました(^^ゞ。このころより牟漏女王は女官として宮仕えを始めたと考えられております。
母親を見習ったのでしょうが、実はこの事は重要であります。
藤原武智麻呂(長男)-正妻・安倍貞媛(大納言・安倍御主人の姪)
藤原房前(長男) -正妻・牟漏女王(義母・橘三千代の娘)
藤原宇合(三男) -正妻・石上国盛大刀自(左大臣・石上麻呂の娘)
藤原麻呂(四男) -正妻・不明(当麻氏OR大伴坂上郎女か?)
藤原不比等の4人の息子達の中で、正妻が宮仕えしたのは藤原房前の妻・牟漏女王ただ一人であります。
このため、藤原房前は4兄弟の中でも抜きんでて大きなパイプを宮中に持つことになります。
この効果はすぐに現れます。
養老5年(721年)元明太上天皇が亡くなります。天皇位を娘・元正天皇に譲ったとはいえ、元明太上天皇の力にはまだまだ大きな物がありました。
自分が亡くなれば、おそらく何かの騒動が起こるのではないか?元明太上天皇はかなり心配していたようです。
そこで、元明太上天皇は2人の男を呼び寄せます。
一人は長屋王。元明太上天皇の婿(?)ですし、当時の右大臣で最高権力者ですから、妥当な線でしょう。
ところがもう一人は、藤原房前でありました。房前は一介の参議でありまして、まだ令制の役職には就いておりません。それが、兄・藤原武智麻呂(当時・中納言)はもちろんの事、他にも大勢いる役人を差し置いてのこの「えこ贔屓(^^;)」。
どうしてこんな事になったかと言えば、
藤原房前が藤原氏であり、首皇子皇太子の伯父になるからですが、それだけなら、呼び寄せるのは藤原武智麻呂でも良いわけです。
で、もう一つの原因と考えられるのが姑・橘三千代+妻・牟漏女王の根回しであります。
「どーか、私の夫に目をかけて下さいまし<(_ _)><(_ _)><(_ _)>(; ;)ホロホロ」
というところでしょうか。で、死に及んで気も弱っていた元明太上天皇は、おそらく押しの強さに負けちゃったんでしょうね。
そればかりか、「大化改新」(645年)に藤原(中臣)鎌足が付いて以来、空席だった”内臣”を復活させて、藤原房前を遺言で任命しております。
「宮廷の内のことを司らせよ」
つまり、今後の皇位継承については藤原房前に一任せよ!というところでしょうか。
早速、元明太上天皇が亡くなった翌年には「穂積老と多治比三宅麻呂の侮告事件」といわれる事件が起こります。この事件の詳細は不明でありますが、2人とも本来ならば死刑になるところが、首皇子の取りなしで流刑に大幅減刑されております。この取りなしを演出し、首皇子即位への気運を盛り上げたのが藤原房前ではないか?と推測されています。
で、藤原房前は根回しを重ねて、わずか3年後の養老7年(723年)には首皇子を即位させるのです。
元明太上天皇の一任した役職を無事勤め上げたわけですね。
(但し、元明太上天皇がこういう展開を望んでいたかどうか分からないが)
つづく
別に、「朝政への参議」自体はそれまでも何人かが許されております。
が!許されるのにはまず条件があって
1)地方出身の豪族で、有能でありながら令制に定められた役職に就けにくい人
2)中央出身の豪族で、令制の適当な役職が無くて、かつ、朝政に参議している同族がいないこと
に当てはまる必要があったと考えられております。
ところが、藤原房前は「地方の豪族」でもないし、しかも父・藤原不比等が右大臣として健在なのですから、既に「朝政に参議している同族がいる」という状態なのです。つまり…掟破り(^^;)。
まず、新興貴族・藤原氏(この時点で藤原氏の勢力は、実は不比等とその息子の合わせて5人だけであった)の勢力を高めようとする藤原不比等の意志がありました。
しかし、自分が生きている間は、自分の息子達を有力な役職に就けられない…。
そこで、律令に規定が無く、しかも政治に参画できる「朝政参議」という仕事に目を付けたわけです。
が、では何故に不比等は長男の藤原武智麻呂でなく、次男の藤原房前を「朝政参議」にしたのでありましょう?
瀧波貞子氏などはこう言っております。
「橘三千代が婿かわいさに、元明太上天皇にお願いして房前をごり押ししたのだ!」
…じゃあ、どうして実子の葛城王(後の橘諸兄)を「朝政参議」に推薦しなかったのでしょうねえ?!という疑問がわいてきます。
これは、やはり上記の条件2)をカバーするためでしょう。
この後、藤原房前の子孫は「北家」を名乗るようになりますが、おそらく、房前が「朝政参議」を拝命したときに、他の貴族達から不満が出た場合、
「なーにおっしゃってられるんですか。私は分家して「北家」になったから条件的には問題ないんですよー(^_^)」
…と、言い訳のネタに使った所からきたのではないでしょうか?
ともかく、律令に定められた役職を持たないのに、実権のある「黒幕の男」?藤原房前の誕生であります。
おっと、今回のヒロインを忘れておりました(^^ゞ。このころより牟漏女王は女官として宮仕えを始めたと考えられております。
母親を見習ったのでしょうが、実はこの事は重要であります。
藤原武智麻呂(長男)-正妻・安倍貞媛(大納言・安倍御主人の姪)
藤原房前(長男) -正妻・牟漏女王(義母・橘三千代の娘)
藤原宇合(三男) -正妻・石上国盛大刀自(左大臣・石上麻呂の娘)
藤原麻呂(四男) -正妻・不明(当麻氏OR大伴坂上郎女か?)
藤原不比等の4人の息子達の中で、正妻が宮仕えしたのは藤原房前の妻・牟漏女王ただ一人であります。
このため、藤原房前は4兄弟の中でも抜きんでて大きなパイプを宮中に持つことになります。
この効果はすぐに現れます。
養老5年(721年)元明太上天皇が亡くなります。天皇位を娘・元正天皇に譲ったとはいえ、元明太上天皇の力にはまだまだ大きな物がありました。
自分が亡くなれば、おそらく何かの騒動が起こるのではないか?元明太上天皇はかなり心配していたようです。
そこで、元明太上天皇は2人の男を呼び寄せます。
一人は長屋王。元明太上天皇の婿(?)ですし、当時の右大臣で最高権力者ですから、妥当な線でしょう。
ところがもう一人は、藤原房前でありました。房前は一介の参議でありまして、まだ令制の役職には就いておりません。それが、兄・藤原武智麻呂(当時・中納言)はもちろんの事、他にも大勢いる役人を差し置いてのこの「えこ贔屓(^^;)」。
どうしてこんな事になったかと言えば、
藤原房前が藤原氏であり、首皇子皇太子の伯父になるからですが、それだけなら、呼び寄せるのは藤原武智麻呂でも良いわけです。
で、もう一つの原因と考えられるのが姑・橘三千代+妻・牟漏女王の根回しであります。
「どーか、私の夫に目をかけて下さいまし<(_ _)><(_ _)><(_ _)>(; ;)ホロホロ」
というところでしょうか。で、死に及んで気も弱っていた元明太上天皇は、おそらく押しの強さに負けちゃったんでしょうね。
そればかりか、「大化改新」(645年)に藤原(中臣)鎌足が付いて以来、空席だった”内臣”を復活させて、藤原房前を遺言で任命しております。
「宮廷の内のことを司らせよ」
つまり、今後の皇位継承については藤原房前に一任せよ!というところでしょうか。
早速、元明太上天皇が亡くなった翌年には「穂積老と多治比三宅麻呂の侮告事件」といわれる事件が起こります。この事件の詳細は不明でありますが、2人とも本来ならば死刑になるところが、首皇子の取りなしで流刑に大幅減刑されております。この取りなしを演出し、首皇子即位への気運を盛り上げたのが藤原房前ではないか?と推測されています。
で、藤原房前は根回しを重ねて、わずか3年後の養老7年(723年)には首皇子を即位させるのです。
元明太上天皇の一任した役職を無事勤め上げたわけですね。
(但し、元明太上天皇がこういう展開を望んでいたかどうか分からないが)
つづく
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