拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
さて、牟漏女王の夫・藤原房前が根回しの限りを尽くして?首皇子を即位させます(聖武天皇)。
その後、長屋王が聖武天皇の勅令に難癖を付けた?「藤原宮子称号事件」異父妹・藤原安宿媛の皇太子出産とその死、そして神亀6年の「長屋王の変」と大きな事件が起きております。
この「長屋王の変」において、近年学者が指摘している奇妙なことがあります。何と、『続日本紀』では藤原房前の名前がこの前後に全然出てこないのです。この学者達はこう言います。
「実は、藤原房前は長屋王とたいそう仲が良くて、他の藤原3兄弟にはみ子(^^;)にされていたのだ。」
と。
しかし、このころ既に藤原房前は「中衛大将」という役職も兼任しておりました。中衛府とは天皇の親衛隊であります。しかも、この中衛府は安宿媛の産んだ皇太子が重体になったと同時に強力化された軍隊なのです。
この中衛府ですが、「長屋王の変」では長屋王の屋敷を取り囲んでおります。
指揮している人は藤原房前ではなく弟の宇合でありますが、中衛大将の指示無く宇合の一存で中衛府を動かせるとは考えられませんから、藤原房前もこの「長屋王の変」の陰謀に加わっていたと見るべきでしょう。
そして、翌年天平元年(729年)藤原房前はやっと令制の役職に就くのです。役職は「中務卿」。天皇の命令を取り扱う重職です。
この抜擢には、藤原房前の働きももちろんですが、姑・橘三千代と妻・牟漏女王の聖武天皇への根回しが効いていたことが考えられます。聖武天皇も皇后・藤原光明子(安宿媛改め)の母と姉の言うことですから素直にはいはいと聞いたことでしょう。
ところが、天平5年(733年)に橘三千代が亡くなると、状況が変わってきます。
藤原房前は中務卿の役を追われて、格下の民部卿に落とされてしまいます。
この事については、私はこう考えております。
藤原房前は、元々兄弟の順に関わらず実力のある物はそれ相応に評価されるべきだ!という考えの人だったように思われます。房前の子供の名前を見ても、それは伺えます。
藤原房前──┬鳥飼
├永手(母・牟漏女王)
├八束(母・牟漏女王)
├清河(母・葛城女王?)
├魚名(母・葛城女王?)
├千尋(母・牟漏女王)
└楓麻呂
房前は、兄弟の順に関わらないような名前を子供達に付けているのですね。
ところが、これが武智麻呂や宇合になると違ってきます。
藤原武智麻呂─┬豊成(母・安倍貞媛)
├仲麻呂(母・安倍貞媛)
├乙麻呂<弟麻呂>
├○
└巨勢麻呂
一目瞭然ですが、長男重視の姿勢を持っていますね。宇合も、武智麻呂ほどひどくはありませんが(^^;)、長男:広嗣、次男:宿奈麻呂<少麻呂>…と、長男重視の傾向があります。
そして、房前は姑や妻を使って根回しの末に出世した様子ですから、そこも疎まれる原因だったでしょう。
結局、藤原氏ににらみを利かせていた姑・橘三千代が亡くなると、我慢してきた?他の兄弟は、一斉に房前にそっぽを向けてしまったようなのです。
また、天平9年(737年)に、新たに聖武天皇が3人の夫人(天皇妃)を向かえますが、この時藤原武智麻呂の娘も入っているにも関わらず、まるで対抗するかのように藤原房前と牟漏女王の間の娘も入っているのも、武智麻呂のひんしゅくを買ったでしょう。
残った妻・牟漏女王は何とかしようとしたでしょうが、彼女の力だけではどうしようもありませんでした。
天平9年(737年)、藤原房前は亡くなります。58歳でした。おそらく、その頃はやっていた天然痘にやられた物と思われます。
この時前例のない話ですが、藤原房前に「大臣としての葬儀を行う」よう詔がありました。藤原房前は実際はまだまだ大臣並に見られていたのですね。
しかし!『続日本紀』によれば、房前の遺族はこのありがたい詔を断ったというのです。
このころ、房前の他の兄弟はまだ健在です。おそらく牟漏女王は、他の兄弟の心情をはばかって遠慮した物と思われます。
しかし、この年は大変な年になっていくのです。
夏になると共に、天然痘は収まるどころかますます猛威を振るいます。
まず、藤原麻呂が亡くなり、次に武智麻呂、そして宇合も亡くなります。
牟漏女王にとって悲しいことはそればかりではありません。
同母兄の橘佐為(佐為王)も亡くなってしまったのです。
また、先妻の子ではありましたが、房前の長男・藤原鳥飼もこの時期を境に『続日本紀』から姿を消しております。おそらく、天然痘にかかって亡くなったのでしょう。鳥飼は、この時期房前の息子の中で唯一従五位以上の役人になっていた人物でした。
そして、年が明けて見れば、平城京の役人はほとんど残っておりませんでした。
つづく
その後、長屋王が聖武天皇の勅令に難癖を付けた?「藤原宮子称号事件」異父妹・藤原安宿媛の皇太子出産とその死、そして神亀6年の「長屋王の変」と大きな事件が起きております。
この「長屋王の変」において、近年学者が指摘している奇妙なことがあります。何と、『続日本紀』では藤原房前の名前がこの前後に全然出てこないのです。この学者達はこう言います。
「実は、藤原房前は長屋王とたいそう仲が良くて、他の藤原3兄弟にはみ子(^^;)にされていたのだ。」
と。
しかし、このころ既に藤原房前は「中衛大将」という役職も兼任しておりました。中衛府とは天皇の親衛隊であります。しかも、この中衛府は安宿媛の産んだ皇太子が重体になったと同時に強力化された軍隊なのです。
この中衛府ですが、「長屋王の変」では長屋王の屋敷を取り囲んでおります。
指揮している人は藤原房前ではなく弟の宇合でありますが、中衛大将の指示無く宇合の一存で中衛府を動かせるとは考えられませんから、藤原房前もこの「長屋王の変」の陰謀に加わっていたと見るべきでしょう。
そして、翌年天平元年(729年)藤原房前はやっと令制の役職に就くのです。役職は「中務卿」。天皇の命令を取り扱う重職です。
この抜擢には、藤原房前の働きももちろんですが、姑・橘三千代と妻・牟漏女王の聖武天皇への根回しが効いていたことが考えられます。聖武天皇も皇后・藤原光明子(安宿媛改め)の母と姉の言うことですから素直にはいはいと聞いたことでしょう。
ところが、天平5年(733年)に橘三千代が亡くなると、状況が変わってきます。
藤原房前は中務卿の役を追われて、格下の民部卿に落とされてしまいます。
この事については、私はこう考えております。
藤原房前は、元々兄弟の順に関わらず実力のある物はそれ相応に評価されるべきだ!という考えの人だったように思われます。房前の子供の名前を見ても、それは伺えます。
藤原房前──┬鳥飼
├永手(母・牟漏女王)
├八束(母・牟漏女王)
├清河(母・葛城女王?)
├魚名(母・葛城女王?)
├千尋(母・牟漏女王)
└楓麻呂
房前は、兄弟の順に関わらないような名前を子供達に付けているのですね。
ところが、これが武智麻呂や宇合になると違ってきます。
藤原武智麻呂─┬豊成(母・安倍貞媛)
├仲麻呂(母・安倍貞媛)
├乙麻呂<弟麻呂>
├○
└巨勢麻呂
一目瞭然ですが、長男重視の姿勢を持っていますね。宇合も、武智麻呂ほどひどくはありませんが(^^;)、長男:広嗣、次男:宿奈麻呂<少麻呂>…と、長男重視の傾向があります。
そして、房前は姑や妻を使って根回しの末に出世した様子ですから、そこも疎まれる原因だったでしょう。
結局、藤原氏ににらみを利かせていた姑・橘三千代が亡くなると、我慢してきた?他の兄弟は、一斉に房前にそっぽを向けてしまったようなのです。
また、天平9年(737年)に、新たに聖武天皇が3人の夫人(天皇妃)を向かえますが、この時藤原武智麻呂の娘も入っているにも関わらず、まるで対抗するかのように藤原房前と牟漏女王の間の娘も入っているのも、武智麻呂のひんしゅくを買ったでしょう。
残った妻・牟漏女王は何とかしようとしたでしょうが、彼女の力だけではどうしようもありませんでした。
天平9年(737年)、藤原房前は亡くなります。58歳でした。おそらく、その頃はやっていた天然痘にやられた物と思われます。
この時前例のない話ですが、藤原房前に「大臣としての葬儀を行う」よう詔がありました。藤原房前は実際はまだまだ大臣並に見られていたのですね。
しかし!『続日本紀』によれば、房前の遺族はこのありがたい詔を断ったというのです。
このころ、房前の他の兄弟はまだ健在です。おそらく牟漏女王は、他の兄弟の心情をはばかって遠慮した物と思われます。
しかし、この年は大変な年になっていくのです。
夏になると共に、天然痘は収まるどころかますます猛威を振るいます。
まず、藤原麻呂が亡くなり、次に武智麻呂、そして宇合も亡くなります。
牟漏女王にとって悲しいことはそればかりではありません。
同母兄の橘佐為(佐為王)も亡くなってしまったのです。
また、先妻の子ではありましたが、房前の長男・藤原鳥飼もこの時期を境に『続日本紀』から姿を消しております。おそらく、天然痘にかかって亡くなったのでしょう。鳥飼は、この時期房前の息子の中で唯一従五位以上の役人になっていた人物でした。
そして、年が明けて見れば、平城京の役人はほとんど残っておりませんでした。
つづく
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