拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
さて、話を変えて牟漏女王の名前について話しましょう。
古代に於いては、その養育を担当した氏族の苗字や、乳部<みぶ>(養育料に相当する領地)の地名が、
皇族の名前に付けられることが多かったようです。
牟漏女王もおそらくそういったところから命名されたのでしょう。
で、「牟漏」という苗字・或いは地名を探すと
和歌山県東牟婁郡・西牟婁郡
などが当てはまります。
一方、牟漏女王の母・橘三千代が仕えた元明天皇の子供についても、現在の和歌山県の地名を名前に持つ子供が2人もいるのです。
草壁皇子 ┌氷高(ひだか)内親王<後の元正天皇>:和歌山県日高郡
├──┼※吉備内親王 :和歌山県吉備郡
元明天皇 └軽皇子<後の文武天皇>
※前にも言ったが、吉備内親王の母が元明天皇かどうかには異説がある。
ここから考えるに、橘三千代が牟漏女王を産む頃には、おそらく元明天皇から養育料を分けてもらうほどに信用されていたのかも知れないですね。
話を本筋に戻します。
複雑な家庭環境の元で育った牟漏女王ですが、年頃になると縁談の話も持ち上がってきます。何しろ、宮廷の実力者・橘三千代の娘ですから引く手あまただったと思いますが、彼女の結婚相手は義理の兄・藤原房前でありました。
蘇我娼子<媼子>┌藤原武智麻呂(長男)
├────────┼藤原宇合(三男)
藤原不比等 └藤原房前(次男)
| | ┌藤原安宿媛(=光明皇后)
├─―――――――――┤
| | └藤原吉日
橘 三千代 │ │
│ ┌牟漏女王 │
├─────┤ │
│ └─────葛 城 王
美 務 王
この時代、異母兄弟の結婚すら許されていたのですから、連れ子どおしの結婚にも当然!問題はありません。
しかし、牟漏女王の立場からすればどうでしょうか?
「父親は美務王でなく、藤原不比等かも知れない」
という噂すら立てられたかも知れない牟漏女王です。相手は、自分の父から母を奪った男の息子なのです。…余りいい気はしませんね。
しかし、この結婚には母・橘三千代の意向が働いていたようです。
橘三千代は、藤原氏と、自分の子供達を結婚させることで氏族の結束を固めようとしていたようです。
橘三千代と藤原不比等の間に産まれた娘(光明皇后の同母妹)を三千代の連れ子の葛城王が妻にしておりますが、これも橘三千代の策略でしょう。
さらに、和銅元年(708年)に父・美務王は既に亡くなっております。
頼るべき肉親が母・橘三千代しかいないことで、いやでも牟漏女王は母の意向に従うしかなかったのではないでしょうか。
牟漏女王が、藤原房前の妻となったのは和銅6年(713年)頃かと推測されています。夫・藤原房前はこの時28歳。この当時としては早くない結婚です。それもそのはず、房前には既に妻も子供もいたのです(○。○)。この女性がいつまで生きていたのかは分かりませんし、一夫多妻のこの時代では当たり前の事態ですが、まだまだ若い牟漏女王にはつらいことが多かったでしょう。
最も、牟漏女王は房前に気にいられていたようで、4人の子供を房前との間に産んでおります。
藤原房前 ┌藤原永手 :次男・和銅7年(714年)生
│ ├藤原八束(真楯):三男・霊亀元年(715年)生
├───┤
│ ├藤原千尋(御楯):六男・推定養老7年(723年)頃生
牟漏女王 └女性(聖武天皇夫人・北殿)
ここで、またまた脱線しますが、牟漏女王の父の家系をおさらいしましょう。
えー、牟漏女王の父方の祖父・栗隈王は敏達天皇の「曾孫」ですが、系図が間違いで「孫」の可能性もあるという話は前回申し上げました。
実はこれが重要でして、
・栗隈王が敏達天皇曾孫:牟漏女王は6代後の皇族→律令では非皇族
・栗隈王が敏達天皇 孫:牟漏女王は5代後の皇族→律令では皇族の一員
となります。一代違いで、牟漏女王の立場がぜんぜんかわってくる事を分かっていただいたと思います。
しかし、この当時は「皇族の一員である場合は皇族としか結婚できない」となっておりました。が、牟漏女王は皇族ではない藤原房前と結婚しております。
となると、
・あの系図が正しいのか?
それとも、
・橘三千代が策略を巡らして義理の息子・藤原房前と娘・牟漏女王の結婚を
無理矢理認めさせたか?
…となりますが???『続日本紀』には、この2人の結婚について何も書いておりませんから、やはり「系図が正しい」になるのでしょうか?うーむ。
…つづく。
古代に於いては、その養育を担当した氏族の苗字や、乳部<みぶ>(養育料に相当する領地)の地名が、
皇族の名前に付けられることが多かったようです。
牟漏女王もおそらくそういったところから命名されたのでしょう。
で、「牟漏」という苗字・或いは地名を探すと
和歌山県東牟婁郡・西牟婁郡
などが当てはまります。
一方、牟漏女王の母・橘三千代が仕えた元明天皇の子供についても、現在の和歌山県の地名を名前に持つ子供が2人もいるのです。
草壁皇子 ┌氷高(ひだか)内親王<後の元正天皇>:和歌山県日高郡
├──┼※吉備内親王 :和歌山県吉備郡
元明天皇 └軽皇子<後の文武天皇>
※前にも言ったが、吉備内親王の母が元明天皇かどうかには異説がある。
ここから考えるに、橘三千代が牟漏女王を産む頃には、おそらく元明天皇から養育料を分けてもらうほどに信用されていたのかも知れないですね。
話を本筋に戻します。
複雑な家庭環境の元で育った牟漏女王ですが、年頃になると縁談の話も持ち上がってきます。何しろ、宮廷の実力者・橘三千代の娘ですから引く手あまただったと思いますが、彼女の結婚相手は義理の兄・藤原房前でありました。
蘇我娼子<媼子>┌藤原武智麻呂(長男)
├────────┼藤原宇合(三男)
藤原不比等 └藤原房前(次男)
| | ┌藤原安宿媛(=光明皇后)
├─―――――――――┤
| | └藤原吉日
橘 三千代 │ │
│ ┌牟漏女王 │
├─────┤ │
│ └─────葛 城 王
美 務 王
この時代、異母兄弟の結婚すら許されていたのですから、連れ子どおしの結婚にも当然!問題はありません。
しかし、牟漏女王の立場からすればどうでしょうか?
「父親は美務王でなく、藤原不比等かも知れない」
という噂すら立てられたかも知れない牟漏女王です。相手は、自分の父から母を奪った男の息子なのです。…余りいい気はしませんね。
しかし、この結婚には母・橘三千代の意向が働いていたようです。
橘三千代は、藤原氏と、自分の子供達を結婚させることで氏族の結束を固めようとしていたようです。
橘三千代と藤原不比等の間に産まれた娘(光明皇后の同母妹)を三千代の連れ子の葛城王が妻にしておりますが、これも橘三千代の策略でしょう。
さらに、和銅元年(708年)に父・美務王は既に亡くなっております。
頼るべき肉親が母・橘三千代しかいないことで、いやでも牟漏女王は母の意向に従うしかなかったのではないでしょうか。
牟漏女王が、藤原房前の妻となったのは和銅6年(713年)頃かと推測されています。夫・藤原房前はこの時28歳。この当時としては早くない結婚です。それもそのはず、房前には既に妻も子供もいたのです(○。○)。この女性がいつまで生きていたのかは分かりませんし、一夫多妻のこの時代では当たり前の事態ですが、まだまだ若い牟漏女王にはつらいことが多かったでしょう。
最も、牟漏女王は房前に気にいられていたようで、4人の子供を房前との間に産んでおります。
藤原房前 ┌藤原永手 :次男・和銅7年(714年)生
│ ├藤原八束(真楯):三男・霊亀元年(715年)生
├───┤
│ ├藤原千尋(御楯):六男・推定養老7年(723年)頃生
牟漏女王 └女性(聖武天皇夫人・北殿)
ここで、またまた脱線しますが、牟漏女王の父の家系をおさらいしましょう。
えー、牟漏女王の父方の祖父・栗隈王は敏達天皇の「曾孫」ですが、系図が間違いで「孫」の可能性もあるという話は前回申し上げました。
実はこれが重要でして、
・栗隈王が敏達天皇曾孫:牟漏女王は6代後の皇族→律令では非皇族
・栗隈王が敏達天皇 孫:牟漏女王は5代後の皇族→律令では皇族の一員
となります。一代違いで、牟漏女王の立場がぜんぜんかわってくる事を分かっていただいたと思います。
しかし、この当時は「皇族の一員である場合は皇族としか結婚できない」となっておりました。が、牟漏女王は皇族ではない藤原房前と結婚しております。
となると、
・あの系図が正しいのか?
それとも、
・橘三千代が策略を巡らして義理の息子・藤原房前と娘・牟漏女王の結婚を
無理矢理認めさせたか?
…となりますが???『続日本紀』には、この2人の結婚について何も書いておりませんから、やはり「系図が正しい」になるのでしょうか?うーむ。
…つづく。
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