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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
夫・美務王の出世にいらいらしていた三千代に近づいてきた男がおりました。

今更言う必要もないのでしょうが、申し上げますと、彼の名は 藤原不比等 といいました。

異論もありますが、私は藤原宇合(うまかい)誕生後に不比等最初の妻・蘇我娼子が亡くなったと考えております。持統天皇7年(693年)の事です。
これは、不比等にとって、政治上かなりのダメージだったと私は考えています。

┌─────天武天皇
└天智天皇  ├──────────草壁皇子
├───鵜野讃良皇女(持統天皇)
┌蘇我石川麻呂─遠智娘
  |
└蘇我連子───蘇我娼子(媼子)┌藤原武智麻呂
├―――───┼藤原房前  
藤原不比等   └藤原宇合



藤原不比等は妻方を通じて、持統天皇と親戚だったわけですね。ところが!蘇我娼子が亡くなったことでパイプが切れたわけです。
実は藤原不比等の持統天皇時代の政治力というのがどれほどの物かを示す史料はあまりないのですが、
(1)後の文武天皇時代に不比等の娘(藤原宮子)が唯一の文武天皇「夫人」となって、3人いた文武天皇妃の最高位を占めたこと、
(2)後世正倉院に納められた「国家珍宝帳」に草壁皇子より刀を不比等に賜った記事があること
などから、かなりの物があったと推測されてます。
これは不比等がかなりの政治的才能に恵まれていたことも一因でしょうが、不比等が持統天皇の実家に連なる人間であったことも背景にあるのでは?と私は考えております。

ともかく、不比等は亡き妻に変わる持統天皇とのパイプを探すわけです。
で、「これやこれ!」ヾ(--;)とお目に留まったのが県犬養三千代というわけです。
県犬養三千代は、身分こそ高くありませんが、持統天皇の信頼深い女官というわけで、十分蘇我娼子に変わりうるパイプだったという事です。

一方、三千代にしても、今の夫・美務王にしがみついて(ヲイ)いても、これ以上の上昇は望めそうもないのが見えていました。
で、三千代はどうしたかというと
あっさり夫を捨てて、藤原不比等に乗り換えてしまうのです(○。○)。
美務王は、まだ筑紫の太宰府に単身赴任の状態でした。世間の人々の同情は美務王に集まったようです。『万葉集』に、美務王に同情する長歌が一首残っております。

三千代が、夫を捨てて藤原不比等へ走ったのは、2人の間に始めて産まれた娘の誕生年が701年(大宝元年)であることから、文武天皇4年(700年)よりさかのぼることになります。
実はこの娘が藤原安宿媛(あすかべひめ)、後の光明皇后その人であります。

実は、藤原安宿媛が産まれた年というのは、藤原氏繁栄の基礎が築かれた年とも言えます。
まず、藤原不比等が中心となって作成した日本初の律令「大宝律令」が発布されます。
また、先程述べた藤原宮子が文武天皇との間に首皇子(後の聖武天皇)を産んだのもこの年です。
そして、県犬養三千代はこの後の藤原氏の行方に深く関わっていくことになります。

これは岸俊男氏の憶測ではあるのですが、
・三千代のこれまでの宮廷に築いた地位
・光明皇后と聖武天皇の生年が同じ事
・聖武天皇の母・藤原宮子が聖武天皇出産後病気となり子育てが出来ない状態になったこと
から考えて、県犬養三千代が聖武天皇の乳母となり養育に携わった可能性が高いことを示しました。おそらく、その可能性は高いでしょう。
そのため、三千代の宮廷内での権力は、更に絶大な物となったと思われます。

ところが、三千代の仕えた持統天皇の最愛の孫・文武天皇は慶雲4年(707年)わずか25歳で亡くなります。
文武天皇の子供達はまだ小さく、とても天皇にはできません。
更に、天武天皇の皇子達がまだ健在です。

┌穂積皇子(母・蘇我大ぬ娘)
├長皇子(母・大江皇女)
├舎人皇子(母・新田部皇女)
天武天皇─┴新田部皇子(母・藤原五百重娘)

├──草壁皇子 ┌氷高(ひだか)内親王(後の元正天皇)
┌持統天皇  ├───┼<吉備内親王>
└─────元明天皇 └文武天皇───┬首皇子(後の聖武天皇、
│    母・藤原宮子)
├広世皇子(母・石川刀子娘)
└広成皇子(母・石川刀子娘)

注1:蘇我大ぬ娘の「ぬ」は 草かんむりに「廴」に「生」
注2:吉備内親王の母が元明天皇かどうかには異論もある

文武天皇の母・阿閉(あへ)皇女は、文武天皇の子に天皇位を伝えるべく、天皇として即位します。これが元明天皇です。

実は元明天皇が即位するには、いくつかの障害がありました。
今までの女帝は天皇の皇后でしたが、元明天皇の夫・草壁皇子は皇太子ではありましたが、天皇にはなっていません。そこで、文武天皇が重体になると草壁皇子には「日並知皇子尊(ひなみしのみこのみこと)」という尊号が追号されます。
更に、元明天皇が即位するときに、天智天皇が言ったという
「不改常典(かわらぬところのつねのみことのり、と読む)」
なる物を持ち出します。これは、天皇位は親から子へ受け継ぐことが正当である、といった内容の物だったようです。
こうして元明天皇の即位の正当性を強調したのです。

いくら元明天皇の父が天智天皇とはいえ、こんな大昔の忘れ去られた(無かったと言う説すらある)法を持ち出すのは、天智天皇の忠臣・藤原鎌足を父に持つ藤原不比等に違いないでしょう。
また、不比等の妻・県犬養三千代も元明天皇の補佐に懸命であったに違いありません。三千代は持統天皇に仕えることで、今まで出世してきました。ここで持統天皇の系統が途絶えることは、三千代にとってもマイナスになるのです。

…つづく

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