拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
県犬養三千代は、美務王と結婚、彼との間に3人の子を産みます。
美務王 ┌葛城王(後の橘諸兄):天武天皇13年(684年)生
│ │
├───────┼佐為王(後の橘佐為)
│ │
県犬養三千代 └牟漏女王:推定 持統6年 ~文武2年 頃生まれ
(693年) (697年)
葛城王は『公卿補任』などに年齢の記録が残ってますから(天平宝字元年(757年)74歳没)、美務王と三千代の結婚は682年から前にさかのぼることがわかります。
また、三千代は天武天皇の頃から宮仕えしていたよう(『続日本紀』によるですから、このころ二十歳前後だったと推測できます。
※参考 後の律令の規定によると、官人の出仕は20歳から。但しこれが女官に当てはまるかどうかは不明です
後の二人についてはいつ産まれたのか?という事を示す史料は残っておりま
せん。ただ、牟漏女王が最初の子供を産んだのが和銅6年(713年)なので、そこから持統天皇末年頃の生まれであろうと推測できるばかりです。
また、三千代が葛城王を産んだのは684年なので、この前後は大きなお腹でしんどい+育児(^^;)で、宮仕えどころじゃないと考えられる。
ということで、産休明けの(^^;)天武天皇14年頃から宮仕えしたと思われますが、この年は問題の年であります。
三千代が葛城王を産んだ前年に大津皇子が朝政を許されます。これをどう評価するか歴史家の間で評価が分かれていますが、ともかく、大津皇子が政界にも正式デビューしたことは事実であります。
これを一番腹立ててみていた人がおりました。そう!鵜野讃良(うののささら)(※実際は「鵜」の字は”廬”に”鳥”)皇女こと、後の持統天皇であります。
息子・草壁皇子の地位を揺るがすライバルの成長に持統天皇、心穏やかならぬ物があったでしょう。
その動揺していた宮廷に県犬養三千代はやってきたのです。この時の三千代がどういう働きをしたのか?それを示す史料は何もありません。
おそらく推測できるのは、この時に三千代は持統天皇の味方となり十二分の働きを果たしたらしいことです。
大津皇子は天武天皇の死後、謀反の疑いで自殺に追い込まれます。(朱鳥元年(686年))
しかし、持統天皇が期待をかけた草壁皇子もまた持統称制3年(689年)に28歳の若さで亡くなり、持統天皇は孫・軽皇子(後の文武天皇)の即位を実現させるために、正式に天皇となります。そして、夫・天武天皇が出来なかった”中国風の都”の実現を行うのです。これが「藤原京」と言われています。
この藤原京より、不思議な木簡が出土しています。
「三千代賜煮(以下欠損)」(三千代に煮物を賜る)
という物です。三千代という名前はこの時代そうそうある名前ではなく、この「三千代」とは「県犬養三千代」と同一人物であると推測されております。
つまり、三千代は、天皇より食べ物を下賜されるほど高い地位を藤原京時代には得ていたようなのであります。
ここまで高い地位を保った背景には、三千代が持統天皇に絶大なる信任を得ていたことが考えられるでしょう。
三千代はこのようにして、持統天皇の腹心としての地位を固めていきますが、
その一方で不満に思っていたことがあったようです。
夫・美務王が思ったより出世しなかったことであります。
それどころか美務王の父・栗隈王が筑紫太宰だったことが逆に影響し、美務王は筑紫の役人から離れられませんでした。
これでは、自分の権力と言ってもせいぜい後宮で根回しが出来るという程度で、自分の子供や県犬養一族の出世にすらつながらないではありませんか!
こういう不満を抱えていたらしい三千代に近づいた男がおりました。彼の名は…
…つづく_(。_゜)/
美務王 ┌葛城王(後の橘諸兄):天武天皇13年(684年)生
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├───────┼佐為王(後の橘佐為)
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県犬養三千代 └牟漏女王:推定 持統6年 ~文武2年 頃生まれ
(693年) (697年)
葛城王は『公卿補任』などに年齢の記録が残ってますから(天平宝字元年(757年)74歳没)、美務王と三千代の結婚は682年から前にさかのぼることがわかります。
また、三千代は天武天皇の頃から宮仕えしていたよう(『続日本紀』によるですから、このころ二十歳前後だったと推測できます。
※参考 後の律令の規定によると、官人の出仕は20歳から。但しこれが女官に当てはまるかどうかは不明です
後の二人についてはいつ産まれたのか?という事を示す史料は残っておりま
せん。ただ、牟漏女王が最初の子供を産んだのが和銅6年(713年)なので、そこから持統天皇末年頃の生まれであろうと推測できるばかりです。
また、三千代が葛城王を産んだのは684年なので、この前後は大きなお腹でしんどい+育児(^^;)で、宮仕えどころじゃないと考えられる。
ということで、産休明けの(^^;)天武天皇14年頃から宮仕えしたと思われますが、この年は問題の年であります。
三千代が葛城王を産んだ前年に大津皇子が朝政を許されます。これをどう評価するか歴史家の間で評価が分かれていますが、ともかく、大津皇子が政界にも正式デビューしたことは事実であります。
これを一番腹立ててみていた人がおりました。そう!鵜野讃良(うののささら)(※実際は「鵜」の字は”廬”に”鳥”)皇女こと、後の持統天皇であります。
息子・草壁皇子の地位を揺るがすライバルの成長に持統天皇、心穏やかならぬ物があったでしょう。
その動揺していた宮廷に県犬養三千代はやってきたのです。この時の三千代がどういう働きをしたのか?それを示す史料は何もありません。
おそらく推測できるのは、この時に三千代は持統天皇の味方となり十二分の働きを果たしたらしいことです。
大津皇子は天武天皇の死後、謀反の疑いで自殺に追い込まれます。(朱鳥元年(686年))
しかし、持統天皇が期待をかけた草壁皇子もまた持統称制3年(689年)に28歳の若さで亡くなり、持統天皇は孫・軽皇子(後の文武天皇)の即位を実現させるために、正式に天皇となります。そして、夫・天武天皇が出来なかった”中国風の都”の実現を行うのです。これが「藤原京」と言われています。
この藤原京より、不思議な木簡が出土しています。
「三千代賜煮(以下欠損)」(三千代に煮物を賜る)
という物です。三千代という名前はこの時代そうそうある名前ではなく、この「三千代」とは「県犬養三千代」と同一人物であると推測されております。
つまり、三千代は、天皇より食べ物を下賜されるほど高い地位を藤原京時代には得ていたようなのであります。
ここまで高い地位を保った背景には、三千代が持統天皇に絶大なる信任を得ていたことが考えられるでしょう。
三千代はこのようにして、持統天皇の腹心としての地位を固めていきますが、
その一方で不満に思っていたことがあったようです。
夫・美務王が思ったより出世しなかったことであります。
それどころか美務王の父・栗隈王が筑紫太宰だったことが逆に影響し、美務王は筑紫の役人から離れられませんでした。
これでは、自分の権力と言ってもせいぜい後宮で根回しが出来るという程度で、自分の子供や県犬養一族の出世にすらつながらないではありませんか!
こういう不満を抱えていたらしい三千代に近づいた男がおりました。彼の名は…
…つづく_(。_゜)/
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