拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
藤原不比等五女-以下、「藤原郎女(ふじわらいらつめ)」と書くことにする。-は、藤原不比等最後の子供として生まれます。
母は、橘三千代…かも知れないし、別の「第四の女」が母親だった可能性もあります。推定生年慶雲元年以降養老5年(707年~721年)(^^;)
まだ幼い彼女にも早くから決められた婚約者がおりました。大伴古慈斐(おおとも・こじひ)。藤原郎女からすれば、父親にしてもおかしくない年齢でした。20歳から30歳近く離れていたのです。
まだむしろ、当時の大伴氏氏上・大伴旅人の長男、大伴家持の方が年齢が近い(養老元年(717年)生まれ)。
しかし、藤原郎女の婚約者が大伴古慈斐になったのは、『続日本紀』に書いてあるように大伴古慈斐の才能に父・藤原不比等が目を付けた可能性も高いでしょうね。
ところが、この当時の政治情勢は長屋王、藤原不比等の四子、橘諸兄…らが、次々と政権を握り、大伴氏・特に傍系の大伴古慈斐はあまり意見を言う機会に恵まれませんでした。大伴古慈斐は地方官を勤めることが多かったようです。
大伴古慈斐が政治に巻き込まれたのは、聖武太上天皇が亡くなり、世の中が不安定になった天平勝宝8年(756年)のことです。
彼はその頃出雲守でしたが、このような政治情勢の故、都の平城京に戻ってきておりました。
その時、淡海三船(おうみのみふね・大友皇子の孫)としゃべっていたのが命取りになります。二人は、今後の皇位継承に絡んで悪口を言ったという、それだけの理由で牢獄に放りこまれてしまうのです。
但し、大伴古慈斐が藤原不比等の娘を妻にしていたのが功を奏してか、すぐに釈放されます。
ただ、大伴古慈斐は出雲国より格下の土佐国の守となります。そのためか、大伴家持は「淡海三船の舌禍に巻き込まれて、古慈斐だけが悲惨な目に合った」という誤解をし、そういう気持ちを歌った和歌も残しております。
更に悲惨なのはその翌年の天平宝字元年(757年)です。「橘奈良麻呂の変」がおき、土佐国にいた大伴古慈斐は連座して、そのまま解任されて土佐国に島流しになるのです。この罪は、それから10年以上解かれませんでした。「藤原不比等の娘を妻にしている」ということで、発言力が大きくなりそうなのが逆に恐れられたかも知れません。
結局、大伴古慈斐が許されたのは宝亀元年(770年)。大伴古慈斐はもうよぼよぼの年寄りになっておりました。それでも、その博学ぶりは大変な物で、光仁天皇は彼を従三位にまで上げ重用しますが、7年後に83歳の高齢で亡くなります。
もし、このころ藤原郎女が生きていたとすれば、60歳前後になっていたと思われますが、全く記録は残っておりませんし、大伴古慈斐の子供達の消息も不明です。
しかし、夫が生きている間に名誉回復したというだけでも、藤原郎女はまだ恵まれている方でしょう。
また、大伴古慈斐にとっても、藤原不比等の娘を妻とすることで出世を狙ったのでしょうが、逆に政争に巻き込まれ、波乱の生涯を送ることとなりました。
以上で、橘三千代とその娘達の生涯を語り終えました。
子供達を政略結婚などで利用し、のし上がっていった橘三千代は、もしかしたら、藤原不比等以上の陰謀家だったように思います。
しかし、そういう母親を持てば子供は不幸になるという典型的な例ですね。
その運命に抗して生きた彼女たちは、それぞれにすごいと私は思うのですが…。皆様はどうお感じになられましたか?
<参考文献>
『奈良朝官人社会の研究』高島正人 (吉川弘文館)
『藤原仲麻呂』 岸俊男 (吉川弘文館)
『古代王権と女性たち』 横田健一 (吉川弘文館)
『飛鳥奈良時代の研究』 直木孝次郎(吉川弘文館)
『古代史を飾る女人像』 黛敏道 (講談社学術文庫)
『奈良朝政治と皇位継承』木本好信 (高科書店)
『律令社会の諸相』 角田文衛 (角田文衛著作集3・吉川弘文館)
「藤原房前と”左大臣家”」中西康裕(『続日本紀研究』)
『長屋王の謎』 森田梯 (草思社)
『奈良朝政争史』 中川収 (歴史新書)
おしまい。
母は、橘三千代…かも知れないし、別の「第四の女」が母親だった可能性もあります。推定生年慶雲元年以降養老5年(707年~721年)(^^;)
まだ幼い彼女にも早くから決められた婚約者がおりました。大伴古慈斐(おおとも・こじひ)。藤原郎女からすれば、父親にしてもおかしくない年齢でした。20歳から30歳近く離れていたのです。
まだむしろ、当時の大伴氏氏上・大伴旅人の長男、大伴家持の方が年齢が近い(養老元年(717年)生まれ)。
しかし、藤原郎女の婚約者が大伴古慈斐になったのは、『続日本紀』に書いてあるように大伴古慈斐の才能に父・藤原不比等が目を付けた可能性も高いでしょうね。
ところが、この当時の政治情勢は長屋王、藤原不比等の四子、橘諸兄…らが、次々と政権を握り、大伴氏・特に傍系の大伴古慈斐はあまり意見を言う機会に恵まれませんでした。大伴古慈斐は地方官を勤めることが多かったようです。
大伴古慈斐が政治に巻き込まれたのは、聖武太上天皇が亡くなり、世の中が不安定になった天平勝宝8年(756年)のことです。
彼はその頃出雲守でしたが、このような政治情勢の故、都の平城京に戻ってきておりました。
その時、淡海三船(おうみのみふね・大友皇子の孫)としゃべっていたのが命取りになります。二人は、今後の皇位継承に絡んで悪口を言ったという、それだけの理由で牢獄に放りこまれてしまうのです。
但し、大伴古慈斐が藤原不比等の娘を妻にしていたのが功を奏してか、すぐに釈放されます。
ただ、大伴古慈斐は出雲国より格下の土佐国の守となります。そのためか、大伴家持は「淡海三船の舌禍に巻き込まれて、古慈斐だけが悲惨な目に合った」という誤解をし、そういう気持ちを歌った和歌も残しております。
更に悲惨なのはその翌年の天平宝字元年(757年)です。「橘奈良麻呂の変」がおき、土佐国にいた大伴古慈斐は連座して、そのまま解任されて土佐国に島流しになるのです。この罪は、それから10年以上解かれませんでした。「藤原不比等の娘を妻にしている」ということで、発言力が大きくなりそうなのが逆に恐れられたかも知れません。
結局、大伴古慈斐が許されたのは宝亀元年(770年)。大伴古慈斐はもうよぼよぼの年寄りになっておりました。それでも、その博学ぶりは大変な物で、光仁天皇は彼を従三位にまで上げ重用しますが、7年後に83歳の高齢で亡くなります。
もし、このころ藤原郎女が生きていたとすれば、60歳前後になっていたと思われますが、全く記録は残っておりませんし、大伴古慈斐の子供達の消息も不明です。
しかし、夫が生きている間に名誉回復したというだけでも、藤原郎女はまだ恵まれている方でしょう。
また、大伴古慈斐にとっても、藤原不比等の娘を妻とすることで出世を狙ったのでしょうが、逆に政争に巻き込まれ、波乱の生涯を送ることとなりました。
以上で、橘三千代とその娘達の生涯を語り終えました。
子供達を政略結婚などで利用し、のし上がっていった橘三千代は、もしかしたら、藤原不比等以上の陰謀家だったように思います。
しかし、そういう母親を持てば子供は不幸になるという典型的な例ですね。
その運命に抗して生きた彼女たちは、それぞれにすごいと私は思うのですが…。皆様はどうお感じになられましたか?
<参考文献>
『奈良朝官人社会の研究』高島正人 (吉川弘文館)
『藤原仲麻呂』 岸俊男 (吉川弘文館)
『古代王権と女性たち』 横田健一 (吉川弘文館)
『飛鳥奈良時代の研究』 直木孝次郎(吉川弘文館)
『古代史を飾る女人像』 黛敏道 (講談社学術文庫)
『奈良朝政治と皇位継承』木本好信 (高科書店)
『律令社会の諸相』 角田文衛 (角田文衛著作集3・吉川弘文館)
「藤原房前と”左大臣家”」中西康裕(『続日本紀研究』)
『長屋王の謎』 森田梯 (草思社)
『奈良朝政争史』 中川収 (歴史新書)
おしまい。
PR