拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
私は、今まで何回も出した系図で、以下のように書いて参りました。
賀茂比売
│ ┌藤原宮子(長女・文武天皇夫人)
├─────┤
│ └藤原長娥子(次女・長屋王妃)
藤原不比等
│ ┌藤原安宿媛(=光明皇后・三女・聖武天皇皇后)
├─────┼藤原吉日(四女・橘諸兄妻)
│ └<藤原殿刀自(五女・大伴古慈斐妻)>
県犬養橘三千代
実は、最後に残ったこの「藤原殿刀自」と言う女性が、橘三千代の娘かどうか?いや藤原不比等の娘であるかどうかも非常に怪しいのであります。
以下、学説紹介になってしまうのですが…。
『続日本紀』宝亀8年条に、ある高齢の貴族の死が詳細に紹介されております。彼の名は「大伴古慈斐」。大伴家持の又従兄弟に当たる、優秀な貴族でした。しかし、何回も陰謀に巻き込まれ、流刑になります。約15年後に無実の罪がはれ、光仁天皇に救い出されて従三位の高位で人生を終えました。
-実は、彼が藤原不比等の娘を妻にしていたというのです。
角田文衛氏は「藤原不比等の娘たち」という論文で、詳細に分かっている藤原宮子・光明皇后 以外 の不比等の娘について研究し、
『続日本紀』神亀元年条・藤原長娥子→長屋王妃
『続日本紀』天平11年条・藤原吉日 →橘諸兄妻
としました。彼女達は夫の叙位と同時に叙位を受けているからです。
その考察の中に問題の
『続日本紀』天平19年条・藤原殿刀自→大伴古慈斐妻
があるわけです。
何が問題かというと、長娥子と吉日は夫より官位がやや低めであります。
他の女性達で夫が分かる人の官位を調べてみても、やはり夫よりはやや官位が低めであります。
例を挙げれば、藤原不比等の妻・橘三千代は
養老4年時点で 藤原不比等:正二位 橘三千代:正三位 でしたね。
ところが!この「藤原殿刀自」と言う女性は、この時同時に叙位を受けた大伴古慈斐より官位がずっと上なのであります。
大伴古慈斐:正五位上 藤原殿刀自:正四位上
これじゃあ、殿刀自が大伴古慈斐の妻とは考えにくい!
で、新たな見解を示したのが高島正人氏の『奈良朝官人社会の研究』の中の一文なのです。
「藤原殿刀自は藤原宇合(藤原不比等の三男)の娘で、この時に聖武天皇の後宮に妃として上がったが、後宮のメンバーには定員がある。
皇后:一名→光明皇后
妃 :二名→欠員(皇族出身であることが条件)
夫人:四名→県犬養広刀自、南殿、北殿、橘古那可智
嬪 :四名→欠員
こういう状況だったので、殿刀自は本当は夫人になりたかったのに、位が下の嬪にしかなれなかった。そのために、「正四位上」という夫人相当の官位を与えて優遇したのではないか?」
ただ、この考えも難がないわけでは無くって、聖武天皇の后は全員没年の記載が『続日本紀』に載っているのに、この藤原殿刀自は、この天平19年条にしか出てきません。
「藤原殿刀自」が藤原不比等五女である可能性は「?」と言うことを分かって頂けたと思いますが、では、この藤原不比等五女が橘三千代との間に生まれた娘である可能性についてはどうでしょうか?
光明皇后、藤原吉日の項でも何回も述べてきましたが、橘三千代はかなりの高齢出産をしています。
藤原安宿媛(光明皇后)701年生まれ:橘三千代推定36歳~38歳
藤原吉日 推定702~5年生まれ:橘三千代推定37歳~42歳
まさか(^^;)と言うこともありますけど、出産に伴う危険が現在の何倍以上になる奈良時代では、吉日の下に更に子供を三千代が生んだ可能性は薄いのではないでしょうか?
…と、ここで終わってはあまりなので(^^;)
藤原不比等五女の一生を簡単に見てみましょう。
つづく
賀茂比売
│ ┌藤原宮子(長女・文武天皇夫人)
├─────┤
│ └藤原長娥子(次女・長屋王妃)
藤原不比等
│ ┌藤原安宿媛(=光明皇后・三女・聖武天皇皇后)
├─────┼藤原吉日(四女・橘諸兄妻)
│ └<藤原殿刀自(五女・大伴古慈斐妻)>
県犬養橘三千代
実は、最後に残ったこの「藤原殿刀自」と言う女性が、橘三千代の娘かどうか?いや藤原不比等の娘であるかどうかも非常に怪しいのであります。
以下、学説紹介になってしまうのですが…。
『続日本紀』宝亀8年条に、ある高齢の貴族の死が詳細に紹介されております。彼の名は「大伴古慈斐」。大伴家持の又従兄弟に当たる、優秀な貴族でした。しかし、何回も陰謀に巻き込まれ、流刑になります。約15年後に無実の罪がはれ、光仁天皇に救い出されて従三位の高位で人生を終えました。
-実は、彼が藤原不比等の娘を妻にしていたというのです。
角田文衛氏は「藤原不比等の娘たち」という論文で、詳細に分かっている藤原宮子・光明皇后 以外 の不比等の娘について研究し、
『続日本紀』神亀元年条・藤原長娥子→長屋王妃
『続日本紀』天平11年条・藤原吉日 →橘諸兄妻
としました。彼女達は夫の叙位と同時に叙位を受けているからです。
その考察の中に問題の
『続日本紀』天平19年条・藤原殿刀自→大伴古慈斐妻
があるわけです。
何が問題かというと、長娥子と吉日は夫より官位がやや低めであります。
他の女性達で夫が分かる人の官位を調べてみても、やはり夫よりはやや官位が低めであります。
例を挙げれば、藤原不比等の妻・橘三千代は
養老4年時点で 藤原不比等:正二位 橘三千代:正三位 でしたね。
ところが!この「藤原殿刀自」と言う女性は、この時同時に叙位を受けた大伴古慈斐より官位がずっと上なのであります。
大伴古慈斐:正五位上 藤原殿刀自:正四位上
これじゃあ、殿刀自が大伴古慈斐の妻とは考えにくい!
で、新たな見解を示したのが高島正人氏の『奈良朝官人社会の研究』の中の一文なのです。
「藤原殿刀自は藤原宇合(藤原不比等の三男)の娘で、この時に聖武天皇の後宮に妃として上がったが、後宮のメンバーには定員がある。
皇后:一名→光明皇后
妃 :二名→欠員(皇族出身であることが条件)
夫人:四名→県犬養広刀自、南殿、北殿、橘古那可智
嬪 :四名→欠員
こういう状況だったので、殿刀自は本当は夫人になりたかったのに、位が下の嬪にしかなれなかった。そのために、「正四位上」という夫人相当の官位を与えて優遇したのではないか?」
ただ、この考えも難がないわけでは無くって、聖武天皇の后は全員没年の記載が『続日本紀』に載っているのに、この藤原殿刀自は、この天平19年条にしか出てきません。
「藤原殿刀自」が藤原不比等五女である可能性は「?」と言うことを分かって頂けたと思いますが、では、この藤原不比等五女が橘三千代との間に生まれた娘である可能性についてはどうでしょうか?
光明皇后、藤原吉日の項でも何回も述べてきましたが、橘三千代はかなりの高齢出産をしています。
藤原安宿媛(光明皇后)701年生まれ:橘三千代推定36歳~38歳
藤原吉日 推定702~5年生まれ:橘三千代推定37歳~42歳
まさか(^^;)と言うこともありますけど、出産に伴う危険が現在の何倍以上になる奈良時代では、吉日の下に更に子供を三千代が生んだ可能性は薄いのではないでしょうか?
…と、ここで終わってはあまりなので(^^;)
藤原不比等五女の一生を簡単に見てみましょう。
つづく
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