拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
天平17年(745年)、5年ぶりに平城京が都に復帰します。
しかし、今度は難波京に行幸した聖武天皇が危篤に陥ります。聖武が亡くなれば阿倍内親王が即位するでしょう。しかし、その後は?
-この極めて不安定な状態の中で、大変なことを考えていたのが橘諸兄と藤原吉日の一人息子・橘奈良麻呂です。橘奈良麻呂と阿倍内親王皇太子は従兄弟の関係ですが、奈良麻呂の父・橘諸兄と阿倍内親王の母・光明皇后が既に仲が悪いのですから、この二人の仲も悪かったと思われます。
美務王
├───橘諸兄
橘三千代 ├───橘奈良麻呂
│ ┌藤原吉日
├──┤
│ └光明皇后─阿倍内親王
藤原不比等
奈良麻呂は何と、阿倍内親王を廃して他の皇子を天皇にしようという企てを計画していたのです。奈良麻呂が天皇にしようとしたのは、藤原氏に自殺に追い込まれた長屋王の遺児・黄文王と安宿王でした。…しかし、この二人の母も藤原氏出身ですから…かなり奈良麻呂追いつめられていますね。
天平20年(748年)元正太上天皇が亡くなったタイミングで、奈良麻呂は反乱を起こそうとしたようです。しかし、既に述べたように、奈良麻呂の計画はあまりにも危険な物だったことから余り賛同者が集まらなかったようで、未遂に終わっております。
ちなみに、息子がこんなとんでもないことを企んでいるとは橘諸兄も藤原吉日も気がつかなかったようであります。
このころ、橘諸兄の政治地位はますます低下をたどっておりました。
「大仏」こと廬舎那仏建立が東大寺で始まっておりましたが、諸兄は余りこの事業が関心がなかったように、私には見えます。
しかし、既に「光明皇后」の所でも述べたように、聖武天皇はこの廬舎那仏建立にすべてをかけておりました。実は、この聖武天皇の気持ちを利用したのが藤原仲麻呂であります。
廬舎那仏建立は大変な難事業で、困難を極めていました。さすがの聖武天皇もくじけかけたときに、「大仏建立を成功させよう」という神託を下した神社がありました。九州の宇佐神宮であります。聖武天皇は感激し、宇佐神宮の神官や巫女にも官位が授けられ、もちろん宇佐神宮にはたくさんの領地が寄進され、仲介役の藤原乙麻呂も従五位下だったのが一気に従三位になっております。しかし、この神託は「うそ」だったのです。
藤原仲麻呂の弟・藤原乙麻呂が兄の意を受けて宇佐神宮と取引をしたのであります。
それに気がついた橘諸兄は直ちに反撃します。
…が、結果は宇佐神宮から領地の返上があり、神官や巫女の位を奪っただけ。
この不始末で、藤原仲麻呂が責められることはなく、藤原乙麻呂も従三位のままでした。
橘諸兄は、この時「正一位・左大臣」でありました。藤原不比等や、長屋王さえついたこと無い…いや、今までだれもついたことのない極官を極めていたのです。
-しかし、その実体はこんなに寂しい物でありました。
天平感宝元年(749年)、聖武天皇は阿倍内親王に位を譲り、太上天皇となります。この年、藤原吉日は従三位となります。
しかしこの昇進も、阿倍内親王の即位を快く思わない橘諸兄に「妻の昇進」という恩義を売って文句を言わせない光明皇后の作戦であったかも知れません(※橘諸兄は既に「正一位・左大臣」であるため、これ以上の昇進はない)。
その翌年、橘諸兄に「朝臣」の姓(かばね)が送られます。今まで橘氏は「宿禰」(すくね)だったので、ワンランクアップしたことになります。しかし、これも「姓のランクアンプ」という恩義を売って橘諸兄に文句を言わせない光明皇后の作戦でありましょう。
橘諸兄はその後ほとんど政界に力を及ぼすことはなかったと考えられます。
天平勝宝8年(756年)には、ついに自ら辞表を出し、本当に政界から引退してしまいます。
前年・天平勝宝7年(755年)に酒席で酔っぱらった勢いで言った聖武太上天皇に対する悪口が原因であったと『続日本紀』は伝えます。
橘諸兄が辞職した天平勝宝8年(756年)、聖武太上天皇は亡くなります。
その翌年天平勝宝9年(757年)、橘諸兄も亡くなります。位極官を極めた人間としては極めて寂しい最後でした。
橘諸兄が亡くなるとすぐに、ライバルだった藤原仲麻呂は「紫微令」と名乗っていた役職を「紫微内相(しびないしょう)」と変えます。正式な役職には就いていなかったものの隠然たる権力を持っていた藤原鎌足(内臣)、藤原房前(内臣)にあやかった物と考えられております。
しかも陰謀を巡らして、皇太子さえ自分の都合のいい人物に変えてしまいます(これについては「光明皇后」の所で既述)。
これを一番怒って見ていたのが、橘諸兄の遺児・藤原吉日の息子、橘奈良麻呂です。彼は、数年前の元正太上天皇が亡くなったときに実行し損ねた計画を再び実行しようとするのです。
今度は失敗できません。長屋王の遺児・黄文王、安宿王の他に、新田部親王の子で聖武太上天皇の婿・塩焼王と、その弟道祖王、その他、佐伯氏、大伴氏で武勇に優れた!といわれた人にはすべて声をかけました。
しかし、この陰謀は意外なところから発覚します。橘諸兄に仕えた佐味宮守と黄文王・安宿王の弟の山背王から密告されたのです。
さすがに、光明皇后も自分の甥を殺すのは忍びなく助命を行いますが、藤原仲麻呂は、彼らを拷問の末殺します。「橘奈良麻呂の変」と言われた大クーデター計画の、あっけない最後でした。助かったのは塩焼王だけでした。
実は、不思議なことにこの変の首謀者である橘奈良麻呂の行方について『続日本紀』は何も書いておりません。「助かった」という説もあるようですが、藤原仲麻呂が失脚した後に名誉回復した形跡が全くないことなどから考えると、やはり獄死したのでしょう。それもおそらく『続日本紀』が書けないくらいの酷いやり方で…。
橘奈良麻呂には3人の息子がいたようですが、名前を除き、詳細は不明です。
橘氏が歴史の表舞台に出てくるのは、何とこれから約50年後に奈良麻呂の孫・橘嘉智子が嵯峨天皇の皇后になるのを待つことになります。
あれ?藤原吉日の事をすっかり書くのを忘れておりました(^^ゞ。
実は、天平感宝元年(749年)に従三位になったのを最後に、藤原吉日は史料から姿を消してしまうのです。
天平感宝元年以降に、夫・橘諸兄に先立って亡くなったとも考えられます。
しかし!私にはそう思えないのです。光明皇后は「橘奈良麻呂の変」で、御自ら奈良麻呂の助命を行っております。が、光明皇后は橘諸兄とは仲が悪く、本来なら橘奈良麻呂なんてどうなってもかまわない!と思っていてもおかしくない人物でもあるのです。しかし、実際の所は光明皇后は甥の助命をしているのです。
これはやはり、光明皇后の妹・藤原吉日が存命だった故ではないでしょうか?
が、この仮説で行くと、藤原吉日は夫の失意の死と、息子の悲劇的な最後を一年の間に2度も見届ける…と言う哀れな運命にあったことになるのです。
私の心情としては、吉日がそうなったとは思いたくないのですが…。
藤原吉日は、母親・橘三千代の政略の結果対立した姉・光明皇后と夫・橘諸兄の争いに巻き込まれ、最後は最も不幸な運命に落とされた悲劇の女性であったといえましょう。
次回は”藤原殿刀自”藤原不比等の五女をお送りします。
しかし、今度は難波京に行幸した聖武天皇が危篤に陥ります。聖武が亡くなれば阿倍内親王が即位するでしょう。しかし、その後は?
-この極めて不安定な状態の中で、大変なことを考えていたのが橘諸兄と藤原吉日の一人息子・橘奈良麻呂です。橘奈良麻呂と阿倍内親王皇太子は従兄弟の関係ですが、奈良麻呂の父・橘諸兄と阿倍内親王の母・光明皇后が既に仲が悪いのですから、この二人の仲も悪かったと思われます。
美務王
├───橘諸兄
橘三千代 ├───橘奈良麻呂
│ ┌藤原吉日
├──┤
│ └光明皇后─阿倍内親王
藤原不比等
奈良麻呂は何と、阿倍内親王を廃して他の皇子を天皇にしようという企てを計画していたのです。奈良麻呂が天皇にしようとしたのは、藤原氏に自殺に追い込まれた長屋王の遺児・黄文王と安宿王でした。…しかし、この二人の母も藤原氏出身ですから…かなり奈良麻呂追いつめられていますね。
天平20年(748年)元正太上天皇が亡くなったタイミングで、奈良麻呂は反乱を起こそうとしたようです。しかし、既に述べたように、奈良麻呂の計画はあまりにも危険な物だったことから余り賛同者が集まらなかったようで、未遂に終わっております。
ちなみに、息子がこんなとんでもないことを企んでいるとは橘諸兄も藤原吉日も気がつかなかったようであります。
このころ、橘諸兄の政治地位はますます低下をたどっておりました。
「大仏」こと廬舎那仏建立が東大寺で始まっておりましたが、諸兄は余りこの事業が関心がなかったように、私には見えます。
しかし、既に「光明皇后」の所でも述べたように、聖武天皇はこの廬舎那仏建立にすべてをかけておりました。実は、この聖武天皇の気持ちを利用したのが藤原仲麻呂であります。
廬舎那仏建立は大変な難事業で、困難を極めていました。さすがの聖武天皇もくじけかけたときに、「大仏建立を成功させよう」という神託を下した神社がありました。九州の宇佐神宮であります。聖武天皇は感激し、宇佐神宮の神官や巫女にも官位が授けられ、もちろん宇佐神宮にはたくさんの領地が寄進され、仲介役の藤原乙麻呂も従五位下だったのが一気に従三位になっております。しかし、この神託は「うそ」だったのです。
藤原仲麻呂の弟・藤原乙麻呂が兄の意を受けて宇佐神宮と取引をしたのであります。
それに気がついた橘諸兄は直ちに反撃します。
…が、結果は宇佐神宮から領地の返上があり、神官や巫女の位を奪っただけ。
この不始末で、藤原仲麻呂が責められることはなく、藤原乙麻呂も従三位のままでした。
橘諸兄は、この時「正一位・左大臣」でありました。藤原不比等や、長屋王さえついたこと無い…いや、今までだれもついたことのない極官を極めていたのです。
-しかし、その実体はこんなに寂しい物でありました。
天平感宝元年(749年)、聖武天皇は阿倍内親王に位を譲り、太上天皇となります。この年、藤原吉日は従三位となります。
しかしこの昇進も、阿倍内親王の即位を快く思わない橘諸兄に「妻の昇進」という恩義を売って文句を言わせない光明皇后の作戦であったかも知れません(※橘諸兄は既に「正一位・左大臣」であるため、これ以上の昇進はない)。
その翌年、橘諸兄に「朝臣」の姓(かばね)が送られます。今まで橘氏は「宿禰」(すくね)だったので、ワンランクアップしたことになります。しかし、これも「姓のランクアンプ」という恩義を売って橘諸兄に文句を言わせない光明皇后の作戦でありましょう。
橘諸兄はその後ほとんど政界に力を及ぼすことはなかったと考えられます。
天平勝宝8年(756年)には、ついに自ら辞表を出し、本当に政界から引退してしまいます。
前年・天平勝宝7年(755年)に酒席で酔っぱらった勢いで言った聖武太上天皇に対する悪口が原因であったと『続日本紀』は伝えます。
橘諸兄が辞職した天平勝宝8年(756年)、聖武太上天皇は亡くなります。
その翌年天平勝宝9年(757年)、橘諸兄も亡くなります。位極官を極めた人間としては極めて寂しい最後でした。
橘諸兄が亡くなるとすぐに、ライバルだった藤原仲麻呂は「紫微令」と名乗っていた役職を「紫微内相(しびないしょう)」と変えます。正式な役職には就いていなかったものの隠然たる権力を持っていた藤原鎌足(内臣)、藤原房前(内臣)にあやかった物と考えられております。
しかも陰謀を巡らして、皇太子さえ自分の都合のいい人物に変えてしまいます(これについては「光明皇后」の所で既述)。
これを一番怒って見ていたのが、橘諸兄の遺児・藤原吉日の息子、橘奈良麻呂です。彼は、数年前の元正太上天皇が亡くなったときに実行し損ねた計画を再び実行しようとするのです。
今度は失敗できません。長屋王の遺児・黄文王、安宿王の他に、新田部親王の子で聖武太上天皇の婿・塩焼王と、その弟道祖王、その他、佐伯氏、大伴氏で武勇に優れた!といわれた人にはすべて声をかけました。
しかし、この陰謀は意外なところから発覚します。橘諸兄に仕えた佐味宮守と黄文王・安宿王の弟の山背王から密告されたのです。
さすがに、光明皇后も自分の甥を殺すのは忍びなく助命を行いますが、藤原仲麻呂は、彼らを拷問の末殺します。「橘奈良麻呂の変」と言われた大クーデター計画の、あっけない最後でした。助かったのは塩焼王だけでした。
実は、不思議なことにこの変の首謀者である橘奈良麻呂の行方について『続日本紀』は何も書いておりません。「助かった」という説もあるようですが、藤原仲麻呂が失脚した後に名誉回復した形跡が全くないことなどから考えると、やはり獄死したのでしょう。それもおそらく『続日本紀』が書けないくらいの酷いやり方で…。
橘奈良麻呂には3人の息子がいたようですが、名前を除き、詳細は不明です。
橘氏が歴史の表舞台に出てくるのは、何とこれから約50年後に奈良麻呂の孫・橘嘉智子が嵯峨天皇の皇后になるのを待つことになります。
あれ?藤原吉日の事をすっかり書くのを忘れておりました(^^ゞ。
実は、天平感宝元年(749年)に従三位になったのを最後に、藤原吉日は史料から姿を消してしまうのです。
天平感宝元年以降に、夫・橘諸兄に先立って亡くなったとも考えられます。
しかし!私にはそう思えないのです。光明皇后は「橘奈良麻呂の変」で、御自ら奈良麻呂の助命を行っております。が、光明皇后は橘諸兄とは仲が悪く、本来なら橘奈良麻呂なんてどうなってもかまわない!と思っていてもおかしくない人物でもあるのです。しかし、実際の所は光明皇后は甥の助命をしているのです。
これはやはり、光明皇后の妹・藤原吉日が存命だった故ではないでしょうか?
が、この仮説で行くと、藤原吉日は夫の失意の死と、息子の悲劇的な最後を一年の間に2度も見届ける…と言う哀れな運命にあったことになるのです。
私の心情としては、吉日がそうなったとは思いたくないのですが…。
藤原吉日は、母親・橘三千代の政略の結果対立した姉・光明皇后と夫・橘諸兄の争いに巻き込まれ、最後は最も不幸な運命に落とされた悲劇の女性であったといえましょう。
次回は”藤原殿刀自”藤原不比等の五女をお送りします。
PR
Comment
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。