拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
藤原吉日が女官となったらしい天平9年(737年)、春先から秋にかけて天然痘が猛威を振るったのは、今まで何回も述べてきました。
藤原吉日の4人の兄(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)、橘佐為(夫の弟)が亡くなっております。
しかし、幸運なことに、吉日の夫・橘諸兄は助かります。しかも、残った役人の中で、一番諸兄が位が高く、また、「皇后の異父兄」と言うことで思いもかけない大抜擢を受けます。
翌年の天平10年(738年)、橘諸兄は右大臣になります。天平9年の時点では主な役職はすべて藤原氏が押さえており、諸兄は一介の参議にすぎなかったのですから、大出世したことが分かるでしょう。
しかし、この抜擢には裏がありました。
既に「光明皇后」の項で既述ですが、光明皇后が娘・阿倍内親王を皇太子とするため、一番反対しそうな諸兄に恩義を与えて反対できなくする作戦だったのです。
藤原吉日は夫と姉の板挟みとなり苦しむ日が多くなったでしょう。
天平11年(739年)には夫が従二位になるのと合わせて、吉日も従四位下となります。
また、愛する一人息子・橘奈良麻呂がいきなり無位から従五位下に任官されます。
しかし、翌天平12年(740年)、「藤原広嗣の乱」が起こります。聖武天皇は突如季節はずれの行幸を強行します。
おそらく、その行幸が奈良に向かっている途中でしょうか。私の考えなのですが、橘諸兄は聖武天皇に勧めたのではないでしょうか。例えば、以下のように…
「疫病で多くの役人が亡くなり、しかも反乱すら起こった今、平城京は縁起が悪い。是非、私の本拠地・甕原(みかのはら)に都を移してみてはどうでしょう?」
聖武天皇の行幸は平城京には戻らず、山城国甕原(現在の京都府木津川市)に遷都が決まります。
「恭仁京(くにきょう)」の始まりです。
この時点で聖武天皇の皇子は、橘諸兄の母方の親戚・県犬養広刀自を母とする安積親王だけです。また、諸兄の姪・橘古那可智に皇子が出生した場合を考えても、自分の本拠地に都があった方が有利!と諸兄は考えたのではないでしょうか。
この時代は橘諸兄の絶頂期でした。
藤原不比等やその息子が行った律令を普及させる政策をすべて元に戻してしまいます。あの長屋王ですら手直ししなかった政策ですら、です。
実は、これが「善政」と言えるかどうかは怪しいのであって、日本の実体に合わせる政策を、当初始まった「机上の計画」に戻してしまうのですから、どちらかというと「失政」に近い。
しかし!何故かこのころはあんなに頻発していた飢饉が無いという幸運にも恵まれます。
橘諸兄は政治の世界から「藤原氏色」を無くすことに意地になっていたように思えますね。
ところが!恭仁京は大変立地条件が悪かった(T.T)。山あいに木津川が流れるこの地は確かに交通の便には優れていましたが、都を立てるスペースがほとんど無かったのです。
その上に天平13年(741年)「国分寺国分尼寺建立の詔」、天平14年(742年)から始まった近江国信楽の離宮の造営により、恭仁京を造る費用が無くなり、天平15年(743年)には恭仁京の造営は中断されてしまうのです。橘諸兄は落胆したことでしょう。それを見ていた藤原吉日の心境やいかに。
更に橘諸兄を落胆させたのが天平15年の「五節の舞」に及んで、元正太上天皇が阿倍内親王を皇太子と認めてしまったことでしょう。諸兄は何とか安積親王の大逆転を狙っていたでしょうから、がっくり肩を落としたでしょう。
この時に橘諸兄は「従一位・左大臣」とこれ以上はない!という官位を授かりますが、これは前の時の「右大臣」と一緒でして、諸兄に恩義を売っておいて「ぐー」の字も出ないようにするという光明皇后の作戦であったのではないかと言うことは先に「光明皇后」の項で既述しました。
諸兄も藤原吉日も、この昇格を心からは喜べなかったでしょう。
で!橘諸兄は起死回生の大作戦を考えるのです。
聖武天皇は難波京を気に入っておりました。この難波京に聖武天皇及び安積親王を引き留めることで、失地回復を狙ったのです。天平16年(744年)のことです。
しかし!ついていないというのか。橘諸兄の命の綱ともいえる安積親王が難波京に向かう途中急逝します。さらに、聖武天皇は難波京を出て、紫香楽宮(滋賀県信楽郡)へ行ってしまうのです。
こうなっては仕方ありません。橘諸兄は光明皇后にいい感情を持っていない元正太上天皇に泣きつくのです。
元正太上天皇は橘諸兄と一緒に難波京にとどまり、難波京周辺に行幸を繰り返し、人々に官位を与え
「この私こそが本当の天皇なのよ!!!」
と言う態度をとるわけです。
直木孝次郎氏は
「紫香楽宮の聖武天皇の対応如何では、元正太上天皇は重祚(ちょうそ)して、聖武天皇と光明皇后から権力を奪おうとしたのではないか?」
と推測されています。女性を跡継ぎにしたり、勝手にあっちこっち行く聖武+光明がどうも身勝手に思え、気にくわないわけですね。
が!不運は更に続きます。元正太上天皇は恒例通り行幸をしていたと思いきや!突如方向を東に変え、紫香楽宮の聖武天皇+光明皇后の元へいってしまったのです。これについては「光明皇后」の項でも少し書きましたが、ともかく!橘諸兄を更に落胆させたことはいうまでもありません。
藤原吉日も、姉のあまりのやりように腹を立てていたことでしょう。
つづく
藤原吉日の4人の兄(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)、橘佐為(夫の弟)が亡くなっております。
しかし、幸運なことに、吉日の夫・橘諸兄は助かります。しかも、残った役人の中で、一番諸兄が位が高く、また、「皇后の異父兄」と言うことで思いもかけない大抜擢を受けます。
翌年の天平10年(738年)、橘諸兄は右大臣になります。天平9年の時点では主な役職はすべて藤原氏が押さえており、諸兄は一介の参議にすぎなかったのですから、大出世したことが分かるでしょう。
しかし、この抜擢には裏がありました。
既に「光明皇后」の項で既述ですが、光明皇后が娘・阿倍内親王を皇太子とするため、一番反対しそうな諸兄に恩義を与えて反対できなくする作戦だったのです。
藤原吉日は夫と姉の板挟みとなり苦しむ日が多くなったでしょう。
天平11年(739年)には夫が従二位になるのと合わせて、吉日も従四位下となります。
また、愛する一人息子・橘奈良麻呂がいきなり無位から従五位下に任官されます。
しかし、翌天平12年(740年)、「藤原広嗣の乱」が起こります。聖武天皇は突如季節はずれの行幸を強行します。
おそらく、その行幸が奈良に向かっている途中でしょうか。私の考えなのですが、橘諸兄は聖武天皇に勧めたのではないでしょうか。例えば、以下のように…
「疫病で多くの役人が亡くなり、しかも反乱すら起こった今、平城京は縁起が悪い。是非、私の本拠地・甕原(みかのはら)に都を移してみてはどうでしょう?」
聖武天皇の行幸は平城京には戻らず、山城国甕原(現在の京都府木津川市)に遷都が決まります。
「恭仁京(くにきょう)」の始まりです。
この時点で聖武天皇の皇子は、橘諸兄の母方の親戚・県犬養広刀自を母とする安積親王だけです。また、諸兄の姪・橘古那可智に皇子が出生した場合を考えても、自分の本拠地に都があった方が有利!と諸兄は考えたのではないでしょうか。
この時代は橘諸兄の絶頂期でした。
藤原不比等やその息子が行った律令を普及させる政策をすべて元に戻してしまいます。あの長屋王ですら手直ししなかった政策ですら、です。
実は、これが「善政」と言えるかどうかは怪しいのであって、日本の実体に合わせる政策を、当初始まった「机上の計画」に戻してしまうのですから、どちらかというと「失政」に近い。
しかし!何故かこのころはあんなに頻発していた飢饉が無いという幸運にも恵まれます。
橘諸兄は政治の世界から「藤原氏色」を無くすことに意地になっていたように思えますね。
ところが!恭仁京は大変立地条件が悪かった(T.T)。山あいに木津川が流れるこの地は確かに交通の便には優れていましたが、都を立てるスペースがほとんど無かったのです。
その上に天平13年(741年)「国分寺国分尼寺建立の詔」、天平14年(742年)から始まった近江国信楽の離宮の造営により、恭仁京を造る費用が無くなり、天平15年(743年)には恭仁京の造営は中断されてしまうのです。橘諸兄は落胆したことでしょう。それを見ていた藤原吉日の心境やいかに。
更に橘諸兄を落胆させたのが天平15年の「五節の舞」に及んで、元正太上天皇が阿倍内親王を皇太子と認めてしまったことでしょう。諸兄は何とか安積親王の大逆転を狙っていたでしょうから、がっくり肩を落としたでしょう。
この時に橘諸兄は「従一位・左大臣」とこれ以上はない!という官位を授かりますが、これは前の時の「右大臣」と一緒でして、諸兄に恩義を売っておいて「ぐー」の字も出ないようにするという光明皇后の作戦であったのではないかと言うことは先に「光明皇后」の項で既述しました。
諸兄も藤原吉日も、この昇格を心からは喜べなかったでしょう。
で!橘諸兄は起死回生の大作戦を考えるのです。
聖武天皇は難波京を気に入っておりました。この難波京に聖武天皇及び安積親王を引き留めることで、失地回復を狙ったのです。天平16年(744年)のことです。
しかし!ついていないというのか。橘諸兄の命の綱ともいえる安積親王が難波京に向かう途中急逝します。さらに、聖武天皇は難波京を出て、紫香楽宮(滋賀県信楽郡)へ行ってしまうのです。
こうなっては仕方ありません。橘諸兄は光明皇后にいい感情を持っていない元正太上天皇に泣きつくのです。
元正太上天皇は橘諸兄と一緒に難波京にとどまり、難波京周辺に行幸を繰り返し、人々に官位を与え
「この私こそが本当の天皇なのよ!!!」
と言う態度をとるわけです。
直木孝次郎氏は
「紫香楽宮の聖武天皇の対応如何では、元正太上天皇は重祚(ちょうそ)して、聖武天皇と光明皇后から権力を奪おうとしたのではないか?」
と推測されています。女性を跡継ぎにしたり、勝手にあっちこっち行く聖武+光明がどうも身勝手に思え、気にくわないわけですね。
が!不運は更に続きます。元正太上天皇は恒例通り行幸をしていたと思いきや!突如方向を東に変え、紫香楽宮の聖武天皇+光明皇后の元へいってしまったのです。これについては「光明皇后」の項でも少し書きましたが、ともかく!橘諸兄を更に落胆させたことはいうまでもありません。
藤原吉日も、姉のあまりのやりように腹を立てていたことでしょう。
つづく
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