拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
慶長3年6月23日に読まれた物で、131首目に引き続き、これも追悼和歌です。
このころ義久は上洛させられていたため、地元鹿児島のお寺ではなく、京都のお寺で法要を営まざるを得ませんでした。東福寺は今では紅葉で知らぬ人はいない大寺ですが、島津氏縁の寺でもありました。塔頭の一つ・即宗院は島津家六代当主・氏久の菩提寺だったからです。しかし、義久は即宗院で法要を行いませんでした。その理由は…永禄13年(1569年)に焼けてしまって、この頃なかったからなんですね。で、別の塔頭・龍吟庵で法要を行いました。
この龍吟庵、今では国宝の方丈で有名なのですが、島津氏or島津義久とはどういうきっかけからこういう縁ができたのかが管見でははっきりしません…情報求む。
参考までに、拙本館HPの東福寺紹介はこちら。
大中庵主とは、義久の父・島津貴久の法名です。「義久公御譜中」「御文庫三番箱中ニ在リ」
「正文有之」
ことし慶長三かへりの林鐘廿三日、大中庵主の年廻の追膳の心さしを、東福寺龍吟庵にていさゝかいとなミけり、尊霊和歌に執心浅からさりしをおもひ出て、はかなしことをつゝりて、影前に手向たてまつるものならし、
法印龍伯
夕たちの雲はきゆともはちす葉に名残をのこせ玉ゆらの露
(「薩藩旧記雑録 後編」3-418)
このころ義久は上洛させられていたため、地元鹿児島のお寺ではなく、京都のお寺で法要を営まざるを得ませんでした。東福寺は今では紅葉で知らぬ人はいない大寺ですが、島津氏縁の寺でもありました。塔頭の一つ・即宗院は島津家六代当主・氏久の菩提寺だったからです。しかし、義久は即宗院で法要を行いませんでした。その理由は…永禄13年(1569年)に焼けてしまって、この頃なかったからなんですね。で、別の塔頭・龍吟庵で法要を行いました。
この龍吟庵、今では国宝の方丈で有名なのですが、島津氏or島津義久とはどういうきっかけからこういう縁ができたのかが管見でははっきりしません…情報求む。
参考までに、拙本館HPの東福寺紹介はこちら。
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