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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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11首目は島津義弘の妻・宰相殿への追悼歌でしたが、ほぼ詞書きも含めて同文のものが慶長12年の項(「薩藩旧記雑録」後編4-322)に出ています。同文なので再掲はしませんが、日付が入っている点だけが異なっており、「慶長十二年二月十五日」となっています。



この史料の前後に、宰相殿死去に関する他の史料も掲載されています。和歌はありませんがヾ(^^;)興味深い物を2点ほど。
「家久公御譜中」
慶長十二年二月朔日、家久之母堂逝去、法号実窓芳眞大姉、家久哀傷之余、三日断水穀、
(「薩藩旧記雑録」後編4-320)
さすがの家久(忠恒)も実母の死はショックだったのか絶食したらしいです。といっても「親が死んで3日絶食プレイ」というのは中国の史書にはよく出てくるテンプレだったようなヾ(--;)
「古御文書御軸物十番箱中」「家久公御譜中ニ在り」
以上
御状令拝見候、仍御母儀様御遠行候由、扨〃沙汰之限御朧気之段、無是非次第共御座候、将亦大御所様御上洛之者へ申入候、恐惶謹言
(慶長十一年)                      羽左衛門大夫
五月廿七日                             正則(花押)
羽柴陸奥守様
御報
(「薩藩旧記雑録」後編4-359)

「羽左衛門大夫正則」は分かる人にはすぐに分かったと思いますが、福島正則のことです。宛先の「羽柴陸奥守」というのは島津家久(忠恒)のこと。豊臣秀吉は生前自身の権力基盤の強化を兼ねたものか、「羽柴」苗字を諸国の大名に配り(押しつけ)まくりました。関ヶ原の合戦後はほとんどの大名が「羽柴」苗字の名乗りをやめてしまったのですが、福島正則は慶長十一年時点でも「羽柴」苗字を名乗っていたこと、また他大名への書状の宛書きも「羽柴」苗字を使っているのは興味深いところです。        

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