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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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5首目の山田有信追悼歌に関して、別の史料が慶長14年の項に出ているのを見つけてしまった_| ̄|○
「義久公御譜中」に出てきた物のようですが(「薩藩旧記雑録」後編4-585)内容はほぼ同文なので書かないことにするヾ(--;)

続きの「薩藩旧記雑録」後編4-586に『旧記』から写したという史料があります。これもほぼ同文なのですが、記述がやや詳しいようにも思われますのでメモしておきます。
『旧記』
一 山田越前守有信入道利安死去之節、 龍伯公御暇乞為可被遊、棺を大龍寺御屋形迄被召寄、御焼香被成下、利安さらハ、自身も頓而追つかんと被遊御意候て、御歌を御手向被下候由申伝なり、
夫利安慶哲居士は山田越前ニ而、猛心を専として疵を蒙、名の誉有事度〃也、然るに忠節之者なれは内外をいはす召仕しに、予五三年の間心地例ならす、怠事なきを歎き、身のかわりになんとゝいひけるか、寔哉、夏のはしめつかたより病の床に臥て、みな月十四日身まかりぬると聞て、不便さのあまり一首をつらねて手向とするものニなん爾、法印龍伯
はちす葉のおきこほしたる露の玉のおわりや君か為ニすてけん
慶長十四年六月廿九日眞
新納武蔵歌ニ
うらやましきへぬる玉の終りまていともかしこき君かことの葉
山田有信が亡くなったのは慶長14年が正しいようですね。『盛香集』は年を間違えたんだろう、うん。

それにしても
「利安さらハ、自身も頓而追つかん」(利安よさらば、私もすぐに追いつくだろう)
といったという義久の言葉が痛切で、臨場感がありますね。

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