拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
9首目はやや違反プレイヾ(--;)
というのもなんと上の句しかないからです。
このような場合、連歌会の発句か何かではないかとも推測されるのですが、状況を見るとそうともいえないようで、何とも謎の「和歌」なのです。
それもそのはずで、義久は琉球出兵には消極派だったと言われています。積極派だった甥(で婿)の島津家久(忠恒)が徳川幕府まで巻き込んだ工作をしたことにより島津家中では積極派が優勢となり、義久も最終的には出兵に賛成せざるを得なくなります。つまり琉球出兵は、島津家中という狭い中で見ると義久派が発言力を失った事件とも言えるわけで、上記の義久が「やる気のない和歌」を連ねたというのももっともなことなのです。
というのもなんと上の句しかないからです。
このような場合、連歌会の発句か何かではないかとも推測されるのですが、状況を見るとそうともいえないようで、何とも謎の「和歌」なのです。
「琉球入り」こといわゆる琉球出兵の際に義久が送った歌ということなのですが、既に書いたように下の句が無く何とも中途半端な印象が否めません。それどころか書かれている「上の句」の内容も兵に送る歌にしては威勢が無く、気抜けした印象を受けます。「在御文庫廿二番箱十巻中」「義久公御譜中ニ在り」
慶長十四年琉球入之首途に、
龍伯法印
むかふ風あらぬは梅のにほひかな
(「薩藩旧記雑録」後編4-547)
それもそのはずで、義久は琉球出兵には消極派だったと言われています。積極派だった甥(で婿)の島津家久(忠恒)が徳川幕府まで巻き込んだ工作をしたことにより島津家中では積極派が優勢となり、義久も最終的には出兵に賛成せざるを得なくなります。つまり琉球出兵は、島津家中という狭い中で見ると義久派が発言力を失った事件とも言えるわけで、上記の義久が「やる気のない和歌」を連ねたというのももっともなことなのです。
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