実は所収の文書には和歌とは関係のない事項も大量に含まれているので、ざっくり切ろうかとも思ったのですが(ヲイ)、頑張って(つ_`;)入力します…
小田原北条攻めで緊迫する中、ネタ主の島津義久は京都にいて、いつものように近衛前久と南蛮人見学したり等つるんでヾ(--;)おります。また、伊勢神宮への参拝も果たしているようです。残念な事に伊勢旅行中に関しては記述がありませんが。「義久公御譜中」
天正十八年、就坂東逆徒征伐、関西諸侯悉以上洛也、以故又一郎久保主発於領国、三月廿四日上著、同廿八日、発於京都赴於東国、僅拾五騎歩卒已下共四百五十人也、龍伯往三条橋口見其行列也、次ヲノ木殿石田殿先手丹波之士也、騎歩已下八百許輩、次石田治部少輔三成殆乎百五十騎許相従矣、次浅野弾正少弼長吉従三百騎許、都合士卒二千五百余人云云、次石川出雲守殿・早川主馬首殿・岡本下野守殿・溝口伯耆守殿・増田右衛門尉殿・或千人或五百人相従也、各行粧盡華美矣、
同月晦日、備前宰相殿進発、相従騎歩一万五千人也、
天正十八年三月朔日、依坂東征伐、 殿下秀吉公京都首途也、余玄貳法印同道出粟田口、仕合能且遂見物矣、諸事盡美以言語非所述也、先陣駿河大納言、已去正月五日率二万余人出張、其次尾張内大臣信雄卿率一万六千余人、
同月六日進発設陣於駿河州三枚橋、後陣諸侯迄三月上旬、在摂州生田森前後云爾、貴賤上下装飾所以盡美麗不可勝言也、
天正十八年三月三日、 近衛殿下光臨也、召南蛮人及上覧矣、
同月四日、候東山 龍山公伸禮詞、迄戌時揚帰鞍鞭也、
同月五日、候 近衛殿下述禮詞、又早旦裁書献東山、所以昨日之謝礼厚意也、
同月六日、裁数通書、将令伊地知民部大輔為使節赴関東、然而非今日進発也、此日欲参宮之為首途、而依雨天延引矣、
天正十八年三月九日、紹巴来訪之次、 禁裏之開花被催拝覧之時読焉、
「在御文書方」
千早振神代にもやハしら雲の
うへにミきりの花のさかりハ 龍伯
天正十八年三月十日、為伊勢参宮進発於京都也、
天正十八年三月廿日、伊勢神拜無障碍既言終、今日帰洛也、所不供奉之臣等賀帰京、備盛膳酌美酒也、
「在御文書方」
同月廿三日、花見之時、
白雲のたちかくしたる花のもとを
とひつゝなかき日もくらしきぬ 龍伯
返歌、
咲そめしこゝろの花のちりぬへき
春のあらしのふかすしもかな
「在御文書方」
常磐なる松も色そふ藤なミの
うつろふ水やかゝミなるらむ
「同」
賀茂のだんの躑躅見候て
神墻のあたりならすは手折ても
かへらまほしき岩つゝしかな
「同」
こゝろなし、
桜さくよしのゝ山の木のもとに
花のころもを一夜からはや
天正十八年三月廿六日、於 禁裏有御能、日吉太夫勤之、為見物潜遂参 内也、
同月廿七日、従于 龍山公往于千本、見桜花之争其色、于時詠一首矣、
「在御文書方」
とく咲し花はちりても遅桜
千もとのかけや常世なるらん
花見終、則従 龍山公入金閣寺、勤盛膳賜美酒、且召芸者有乱舞、乗其興迄日暮催帰宿也、
天正十八年三月廿九日、詣東山 青蓮院●(※てへんに「慮」)無礼怠、酒食既終、而後尊円親王真筆数多遂拝見者也、
天正十八年四月朔日、為謝昨日懇志献使書於 青蓮院、使者八木越後入道嘉竺也、従 青蓮院亦有使者来也、
同月二日、辞京都下大坂、従鳥羽乗河舟、酉時下著者也、
天正十八年四月四日、於伊久田間有今春太夫之勧進能、往其場終日遂見物、慰耳目也、
同月五日、 殿下秀吉公、従関東賜 台書於龍伯及義弘、記左
(「薩藩旧記雑録」後編2-651)
実はこの文書の後に、秀吉が義久と義弘に送った文書というのが続くのですが…個人的にちょっと興味深い。別項にて続く_(。_゜)/。
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