拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
天正18年4月6日に詠まれた物です
「大和より参り越られ(従大和被参越)」というのが個人的に気になります。忠豊は豊臣秀長(大和大納言)に従っていたのか、それとも別の所用で大和にいたのか?
それにしても、島津家久(豊久の父)を暗殺したのが島津義久という説を唱えた人がいらっしゃいましたが、そういう人と親しく対面できるんでしょうか。
関連日記 こちら
「島津又七忠豊」は拙ブログを読んでいる皆様にはご存じの超有名人、島津豊久のことです。豊臣秀吉に従い小田原城攻めに出兵し、その後奥州攻めにもつき合わされて、結局9月に帰京しその後佐土原に帰国したのですが(「薩藩旧記雑録」後編2-649「又七郎豊久譜中」)、これによると4月頃には大和(現在の奈良県)から来て、上洛中の義久と対面し、細かい話をしたとあります。「義久公御譜中」
天正十八年四月六日、島津又七忠豊従大和被参越、遂対面※(およぶ、本文はしんにょうに「台」)細話矣、
「在御文書方」
時鳥こえは雲井にへたつとも
雨にことゝへ草の庵を
(「薩藩旧記雑録」後編2-653)
「大和より参り越られ(従大和被参越)」というのが個人的に気になります。忠豊は豊臣秀長(大和大納言)に従っていたのか、それとも別の所用で大和にいたのか?
それにしても、島津家久(豊久の父)を暗殺したのが島津義久という説を唱えた人がいらっしゃいましたが、そういう人と親しく対面できるんでしょうか。
関連日記 こちら
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自害かな?
リンクの方は、もう、公開されてなかった〜
自分は家久は服毒したんじゃ〜と推測してた。
傷心の美青年、豊久を義久と義弘が奪い合い〜(爆笑)
上洛したら、秀吉に鈴をつけられ利用されるのは、目に見えてる。伊集院忠棟ポジに家久が入る事になる。
そうなれば、家久系は国賊伝の仲間入り。
島津と自分の家族を守るためには、死ぬしかないかな〜と、文献が無いので完全な推測(; ̄ェ ̄)
出展忘れたんですが、家久は領地替えを願い出てたとか。
叶ったとしても秀吉の島津対策に、何らかの形で利用されたと思います。
この晩年の悲哀感が人気に拍車かける気がします。
自分は家久は服毒したんじゃ〜と推測してた。
傷心の美青年、豊久を義久と義弘が奪い合い〜(爆笑)
上洛したら、秀吉に鈴をつけられ利用されるのは、目に見えてる。伊集院忠棟ポジに家久が入る事になる。
そうなれば、家久系は国賊伝の仲間入り。
島津と自分の家族を守るためには、死ぬしかないかな〜と、文献が無いので完全な推測(; ̄ェ ̄)
出展忘れたんですが、家久は領地替えを願い出てたとか。
叶ったとしても秀吉の島津対策に、何らかの形で利用されたと思います。
この晩年の悲哀感が人気に拍車かける気がします。
秀保隊と同行?
島津豊久が小田原に出征していたのは初耳でした。長徳軒の末裔に会ったりしたのでしょうか……。4月7日は小田原攻囲が始まった直後なので、前線部隊ではないように見えます。豊久は秀長名代の秀保に付けられたのかも知れません。
色々と勉強になります。これからも宜しくお願いします。
色々と勉強になります。これからも宜しくお願いします。