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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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慶長5年は1月27日の作です。
なかなか興味深い和歌です。
「義久公譜中」
一慶長五年正月廿七日、大明質人渭浜帰帆、慕之詠之、
「御文書ニ有之」
かりそめのなさけとしるもまたあハむ
事をししたふもろこしの人
(「薩藩旧記雑録 後編」3-1026)
渭浜なる明人が朝鮮出兵の際、捕虜となって薩摩に連行されていたのが、帰国することとなり、その際に詠んだ物と思われます。
ちなみに「渭浜」なる人、どういう人かと気になってGoogle検索してみましたが、予想通り引っかかりませんでした(^^;) 高知県とか陝西省に同じ名前の地名はあるようですが
「薩藩旧記雑録」の外の文書によると、この人は島津家が直接捕縛した捕虜ではなく、徳川家康預かりになっていたのを慶長4年7月に薩摩に移された模様です(「薩藩旧記雑録」後編3-807)。

これに関連するとおもわれるのが、この直前にある明国宛の書簡(但し案文)なのですが、これが又興味深いというか、不可解な文書なのです。
「御文庫廿三番箱」「義弘公御譜中案文在巻本トアリ」
日本 薩州太守源義弘 源忠恒
寺沢志摩守正成 謹啓
大明総理軍務都指揮茅老爺 幕下
一 去歳己亥年夏五月、呈愚翰伝達也否、至今未見回章、如本邦者、
大相国大閤戊戌秋下世矣、 内大臣源家康公受 遺命輔佐
令嗣秀頼公、治之以文、施之以武、故国豊民安也、

皇朝之質子四官人淹留于
(中略)
「朱カキ」「慶長五年」
庚子孟正二十有七日     忠恒在判
正成在判
義弘在判
(「薩藩旧記雑録」後編3-1025)
慶長五年時点では、島津氏は公式文書では「藤原氏」を名乗っていたはずなのに、この文書では「源氏」。この文書自体が後世の作かとも思ったのですが、島津忠恒(家久)を“忠恒”で記入している(慶長11年(1606年)に改名)ので、後世の作ではないと思われます。
徳川家康(この文書では「源家康」)が政治の実権を握っていることをこの文書では明言していますが、家康の氏が「源」なので、その親族のように見せかけるために源氏を名乗ったのでしょうか?

もう一つの疑問は、この文書に連名している寺沢正成は「寺沢」という苗字を書いて、氏を記入していないこと。表記自体も”苗字→官名→名」と日本風だし(中国風スタイルは「官名→氏→名」)。明との交渉に使う大事な文書のはずなのに、名乗りすら統一を取ってない体裁の悪い文書になっているように見えるのですが。

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