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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前回の話のついでに発掘してきた拙コラムです。
書いたの19年前。ひぇ~そんな昔か(○。○)…年は取りたくないトホホ。
では前回同様ご興味のある方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ。


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聖武天皇と光明皇后の間の一人娘・阿倍内親王のことは皆さんご存じだと思います。
彼女が政局上の絡みから、日本史上(今のところ)最初で最後の「女性皇太子」
となり、後に「孝謙天皇」として即位したのは有名であります。

さて、日本における女帝は
1)先帝の未亡人:推古、皇極(斉明)、持統、元明の4人
2)皇女で独身 :元正、孝謙(称徳)、明正、後桜町の4人
            
で、即位時点では夫を持っていないのが注目されます。
ヨーロッパの女王や女帝は夫がいるのがむしろ普通ですから、非常に面白い
現象といえますね。

今回のヒロイン・孝謙天皇も独身のまま49歳にて亡くなっております。
さて、彼女に結婚するチャンスはあったのでしょうか?


孝謙天皇はスキャンダルも多い女帝でして、
まず、従兄弟の藤原仲麻呂との中が疑わしいという説があります(角田文衛
氏など)。大仏開眼の後に仲麻呂の屋敷に行幸した後、そのままその屋敷を
「宮」と称して住み着いてしまったという辺りから来た説のようです。
そして、有名な道鏡とのスキャンダルがあります。実際にどんな中だったか
を示すはっきりとした史料はありませんが、「独身の女帝にお側近く近づく
だけでも怪しい」ということを、去年「弓削道鏡」で述べたことがあります。

しかし、彼女は彼らとは結婚していません。
藤原仲麻呂は「従兄弟で母親の信頼も厚い重臣」
道鏡は「ぼーず同志の茶飲み友達」(^^;)
で、ほんとに男女関係がなかった可能性もありますが、それより何より彼女
には結婚できない「障害」があったのです。


『養老律令』のなかの「継嗣令」だったと思いますが、皇族の結婚できる範
囲を定めた条文があります。
これを読んでみると、皇族の男子はほぼ無制限なので別に問題ないのですが、
皇族の女子は非常に制限が厳しかったことが分かります。
まず、
 1)天皇から5代の孫までを「皇族」とする
という規定があり
 2)「皇族」の女性は「皇族」の男性としか結婚できない
事になっていたのです!
更に
 3)天皇の娘(=内親王)は皇孫(つまり天皇の孫)までの男性しか結婚で
   きない
事になっていました。き、厳しい。
例としてあげると
孝謙天皇の異母姉妹だった不破内親王は塩焼王(天武天皇の孫)、井上内親王
は白壁王(後の光仁天皇、天智天皇の孫)と結婚しています。

ところが、孝謙天皇は天武天皇の孫や、天智天皇の孫とも結婚できなかったの
です。
なぜなら、上の「継嗣令」をみてみると「女帝の場合は誰と結婚できるか」と
いう規定がありません。何故無いのか?作る必要がなかったからです。

それまで「女帝」となった人たちはすべて先帝(或いはそれに準じる人)の未
亡人です。元正天皇だけが例外ですが、彼女も『続日本紀』によれば「天皇位
を確実に(草壁皇子の子孫に)伝える」ために即位した「中継ぎの天皇」です。
この時、草壁皇子の子孫は首皇子皇太子(=聖武天皇)を始め、長屋王と吉備
内親王の間の皇子3人がおり、元正天皇が結婚して子供を作る必要は全くあり
ませんでした。

つまり、「女帝」=”独身”というが当時の暗黙の了解であったと考えられま
す。

が!このような不文律があると、孝謙天皇は結婚できません。
そして彼女はやはり結婚できないまま亡くなり、聖武天皇の直系は断絶してし
まいました。
ちなみにその後、聖武天皇の婿になる白壁王が即位して光仁天皇となり、外孫
の他戸親王が皇太子となりますが、政争に巻き込まれて他戸親王は廃されます。
その後に塩焼王と不破内親王の間の子供が天皇になろうとするクーデターもあ
ったのですが、実行前に発覚し、聖武天皇の子孫はここに断絶します。


もし、孝謙天皇が結婚できたとしたら…

まず、道鏡という怪しい坊主が出てくることはなかったでしょう(^^;)
道鏡が孝謙天皇に近づいたのは、光明皇后の死をきっかけとしてノイローゼ
になった彼女を「看病」したのがきっかけでした。
彼女が結婚していたら、光明皇后の死による孤独からノイローゼになること
もなく、道鏡は登場するきっかけすらなかったでしょう。

また、イギリスのエリザベス2世女王のように、夫との間に産まれた皇子を次
の皇太子として跡を継がせればよいのですから、聖武天皇の子孫が代々天皇に
なって続いていたと考えられます。
(最も、孝謙天皇の夫に藤原氏出身の貴族が収まって、藤原一族が政治を牛耳
る可能性もありますけど…)

そうなると孝謙天皇の跡継ぎとして、光仁天皇が浮上することもなかったでし
ょうから、その息子である桓武天皇も出てくることはなく、京都に都が移るこ
ともなかったでしょう。

また、もし皇子が産まれなかった場合は孝謙天皇同様に皇女が後継者となれ
ばよいことになりますから、皇女の政治的地位も向上したと思われます。


しかし、上で話したように、この時代として「女帝の結婚」は信じられない話
でした。
孝謙天皇が結婚できる可能性を探った今回のテーマですが、現実にはそ
の可能性すら絶たれていたと言えましょう。



道鏡ネタで過去のログをひっくり返していたら他にも興味深いネタが出て来たので、この間持たせネタしばらく続く_(。_゜)/。
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